出水洸汰はその日も雄英生たちのバカみたいに頑張る姿に苛立ちを覚えながら秘密基地へ足を運ぼうとした。しかしなぜか足が震え、意味もなく涙が出そうになるのを感じて胸の辺りの服を握った。よくわからないが、今日はやめよう。また明日行けばいい。決心した途端震えも涙も収まって洸汰はようやく上手く呼吸ができた。

だがその明日は本当に来るのだろうかと洸汰は目の前で繰り広げられる戦いにただただ怯えていた。雄英生徒が肝試しをするとかなんとかでマンダレイたちと広場にいたとき、突如敵二人が襲い掛かってきたのだ。生徒たちと顔を合わせたくなかったために近くの木にもたれかかっていた洸汰の目が潤む。ピクシーボブは敵の一人――マグネにやられてしまった。飯田たちに逃げろと指示したマンダレイも虎も交戦を始めてしまう。なんだこの状況は。なんだこの光景は。とにかく逃げよう。顔を合わせないようにしていたため飯田たちは自分の存在に気づかなかったのか既に付近にはいない。マンダレイもスピナーたちの相手に必死で洸汰が逃げたかどうかを確認できない。その証拠に頭の中で『洸汰、ちゃんと逃げられた!? ごめんね……っ無事でいて! すぐ施設に戻るから!』とマンダレイの声が響いていた。ぐったりとしたピクシーボブの姿にベッドの上で冷たくなっていた両親が嫌でも思い出される。逃げないと見つかる。きっと殺される。恐怖で動かない足が情けなくて洸汰はとうとう涙を溢れさせた。


「楽しいことやってんじゃねえかよ!」
「何をしてる持ち場に戻れ!」
「やだちょっと! 人数は足りてるわよ!」
「んだよ、暴れさせろや!」


広場にまた一人増えた敵の巨漢がローブをたなびかせ弾ませた声を上げる。洸汰はその敵の顔を見た瞬間先ほどまで動かなかった足が嘘のように駆け出していた。マンダレイも目を見開いていたから間違いない。増強型であろう"個性"。テレビで報道されていたときの写真と同じ顔。何よりあの左の義眼。両親、ウォーターホースを殺害した男だった。何度か躓くが必死になって走り、遠くへ逃げようと必死になる。目を瞑って走っていると突然何かにぶつかって尻餅をついてしまった。木にしては柔らかかった感触にしばらく放心していたが、洸汰はようやく我に返り顔を上げた。敵でないことを祈って見上げて、大げさに息を呑む。


「お、まえ」


――大丈夫だよ、洸汰くん。必ず助けるから。

何かが弾けたように目の前で心配そうに窺うなまえのあり得ない光景がいくつも浮かぶ。全身ボロボロじゃないかとか、自分のためにどうしてそこまでしているんだとか、何も知らないくせにとか。色んな光景が思いと共に駆け巡っていく。血だらけになりながらも命を賭して守り助けてくれたところも、全部。華奢な体だと思いきやしっかりと鍛えられた背中を見つめた。ああ、きっと、この人が……僕の、

――僕のヒーロー


「怪我は、ないみたいだね。よかった」


意識がどこかへ飛んでいたようで洸汰は肩を震わせた。ほっとした様子のなまえに鍛えられた様子は一切ないし、服だって綺麗なままだ。そもそも服装が全く異なっていた。今の光景は一体、と思いながらも幻だと一蹴できないのはなぜだろう。こんな怪しい女からはさっさと逃げなければ。


「えっと、大丈夫? 君、名前は?」
「あ……い、ずみ、こうた……出水洸汰……」


名前を言い終わってから何を名乗っているんだとカッと顔が熱くなるのがわかった。なまえはここは危ないからプロヒーローがいるところに行ったほうがいいと言う。逃げようと差し出してくる手はやはり傷を知らない綺麗な手だった。洸汰はなまえの手のひらを見つめて先ほどの光景を思い出す。あの光景のなまえは間違いなくヒーローで、心が救われた気がした感覚は今も残っている。目の前にいるなまえのことを信じたらいいのかがわからない。普通ならその手を振り払ってでも逃げるべきなのに、洸汰は気づいたら施設に行くよう言われたことを伝えて腕を伸ばしていた。先ほどの光景が幻ならそれでもいい。なまえは信用できる人物だと自分の中の何かが叫んでいる。そんな他人が聞いたら鼻で笑われてしまいそうな理由でも、洸汰にとっては大きな理由になった。助けてと縋る洸汰に応えるように、強く強く握り返された。


「おいおい。俺たち裏切って、ガキと仲良く遠くへ逃げようってか?」


しかし立ち上がって自分たちを待っていたのは、希望ではなく絶望だった。







「マス、キュラーさん……」


なまえが洸汰を庇うように前に出た。それでも握る手は離れることなく、おかげで洸汰の恐怖が少しは和らいだ。怖いことには変わりなくて涙腺は崩壊寸前ではあるが。


「裏切りとかじゃないの。ただ、この子だけは助けてあげたくて」
「たしかに資料にはなかった顔だな、そのガキ」
「うん。ヒーローでも生徒でもないただの男の子だから。施設付近に連れて行ったら、私はすぐ荼毘さんたちのところに行くよ」


敵と仲間だったことに洸汰は目を見張る。しかし自分を助けようとしているのは明白だ。周りに頼れるのはなまえしかいない以上、信用できると判断した彼女から離れるわけにはいかない。


「でもなあ、俺には資料とかどうでもいいんだよ」
「えっ」
「俺ァただ、血が見てえんだ!!」


ローブを脱ぎ興奮したままのマスキュラーが拳を握って間合いを詰めた。洸汰を抱きしめて横に飛び、間一髪で迫ってきたマスキュラーを避けることに成功する。こんなのまぐれで次にマスキュラーが襲いかかれば自分も洸汰もただでは済まないだろう。強く打ちつけた体を起こし、洸汰の無事を確認してなまえは安堵の笑みを浮かべた。


「だ、だいじょ……っ!?」


飛び退いた際に木の枝で傷つけてしまったらしく、なまえの腕の服が破れ血が滲んでいた。洸汰はなまえの怪我に嗚咽がこみ上げる。マスキュラーは過去になまえを傷つけた際に向けられたとある人物の殺気を思い出して動きが一瞬止まった。その瞬間を見逃さなかったなまえが洸汰の手を引っ張り全速力で走る。お互いもつれながらではあったが、とにかく殺す気満々のマスキュラーから逃げなければという思いでいっぱいだった。


「洸汰くん! 施設はどっち!?」
「え、あ」
「私作戦のお話はあまり聞かされてなくて、ここの地形にも詳しくないの! 教えてっ!」
「っ、ここを真っ直ぐ進んで森を抜ければ、つく!」


作戦ってなんだよ、とは思ったものの洸汰は手を握っているのとは反対の指で正面を差して道の誘導を始めた。早く、早く――! と必死に足を動かして施設へ辿りつく。施設の前では相澤と雄英の生徒が立っていて、洸汰はおい! と大声を張り上げた。こちらに視線を向けた全員が洸汰の生存を確認できて安心するが、彼が手を繋いでいるなまえを見て驚愕する。相澤は敵の襲撃と関係があると見て口を開いた。


「緑谷なまえ、なんでここに……」
「理由を説明している暇はなくて! お願いしますイレイザーヘッド、洸汰くんを――」
「っ後ろ!」


洸汰の大声で咄嗟に手を離したなまえの体が吹っ飛び木の幹に叩き付けられる。あまりの痛さと突然の出来事に受け身が取れず、うつ伏せに倒れたまま声を発することもできない。しばらく目の前が白んだが自分に影ができたことに気づき顔を上げる。そこにはやはりと言うべきか、筋繊維を増幅させ怒りに顔を歪ませたマスキュラーが佇んでいた。峰田の敵だという恐れた声や相澤の舌打ちが聞こえるが他の生徒になど目も向けずなまえを見つめる。


「よく考えたらここにあいつはいないしな。お前がここで死んでも、あとでいくらでも言い訳できる」
「う……」
「じゃあななまえ。死柄木にはお前が裏切って勝手に死んだって伝えておいてやるよ。お前の血見たら、殺したいって気持ちが抑えきれなくなった」


仲間割れかと誰もが動けない中マスキュラーの後頭部に小さな石がコツンと当てられた。実際勢いよく放たれたものではあったが痛くも痒くもない攻撃にマスキュラーは静かに首を動かす。


「そいつに、っ僕のヒーローに、近づくなよ! そうやってウォーターホースも……僕のパパとママも傷つけて殺したんだろっ」
「こう、たくん」


その言葉で洸汰が自分の左目を義眼にしたウォーターホースの子どもだということを知ったマスキュラーに笑顔が戻った。


「運命的じゃねえか! お前もすぐ殺してやるから待ってろって。ああ、いたのかプロヒーロー。この施設の中に爆豪ってガキはいねえのか?」
「爆豪くんだと……!?」


相澤は先ほどの荼毘の生徒が大事かという言葉、そしてマスキュラーの爆豪という言葉で狙いが爆豪をはじめとした生徒たちだということを理解した。飯田たちもそれに爆豪を狙っていることを大体察したようだ。マスキュラーはなまえが起き上がれないよう肩に足を乗せてはーっとため息をつく。


「答えはいないか。……なあなまえ。お前こういう戦いとは無縁の生活送ってたんだろ? 敵連合に入る前はもちろん、今までも死柄木たちの背中に隠れて守られてきたんだろ? じゃあお前……骨が折られる痛さなんてのも知らねえよな」
「っ」
「や、やめろ!!」


骨どころか体ごと潰す気であろうマスキュラーはなまえをこの手で殺せるということに快感を覚えた。裏切り者だから殺すなんてものは建て前だ。マスキュラーはなまえから流れる血を見て、前回誤って傷つけてしまったときには一切なかった高揚感を感じていたのである。いつも自分に笑いかけていたなまえが苦痛の表情を浮かべて今自分の拳によって殺されようとしている。先ほどは自分ではなく子どもを選んで逃げ出したことに怒ってしまったがその怒りなど既に忘れてしまった。潰して殺すとき一体なまえはどんな表情をしてくれるだろう。わくわくするぜと呟きマスキュラーがなまえ目がけて拳を振り下ろす。背中に感じる洸汰の"個性"など知ったことか。あと数ミリでなまえに拳が当たるというところでマスキュラーの動きが止まった。


「"個性"が……」


筋力増強の"個性"が出ないことに気づきマスキュラーは自分の腕を見た。ふと死角から攻撃を受けそうになるのを察知してマスキュラーは自身の身体能力のみでそれを避ける。"個性"を消した本人である相澤の蹴りを避けたマスキュラーは邪魔をされたことに不満を漏らそうとした、そのときだ。


「よくやったよ、イレイザーヘッド」


ぶわりとマスキュラーの視界が青に覆われる。荼毘の手から発せられた炎によって、マスキュラーはあっけなくその場に崩れ落ちた。


林間合宿編:中編



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