「う、ぐ、おえっ」


深夜に目が覚めた私は頭の中をかき混ぜられているかのような気持ち悪さで蹲っていた。吐き気はあるが実際に吐かなかったことが救いだ。布団の上でごみ箱を抱えながら荒く呼吸を繰り返す。きっとこれは記憶を取り戻したことによるものだ。夢のおかげでこの世界で生きてきた記憶を全て取り戻した私は、渡我なまえとしての記憶を完全に取り戻した。そうか、私の"個性"は変身で、両親は血を好む私が嫌で、普通に生きてほしくて、だけど皆の言う普通は私にとって苦痛でしかなくて。そこで私はあれ? と首を傾げることとなる。"個性"が変身ということは。


「私……出久くんの血、飲んだ」


ごくりと喉が鳴るのがわかった。気分の悪さは相変わらずだが今はそれよりも高揚感が勝った。記憶を頼りに着ていたパジャマをゆっくりと脱いでいく。今からすることに服は邪魔でしかない。裸のままおぼつかない足取りで部屋の隅に置かれた全身鏡へ向かう。頭に思い浮かべるのは出久くんのことだけだ。ズズ、と自分が作り変えられていくような感覚に私は恍惚な表情を浮かべているに違いない。鏡の前に立った私は自分の姿に思わず長い息を吐いた。


「なまえちゃん」


ああ、すごい。声までそっくり。鏡に映るのは金髪の女の子ではない。癖のある髪や鼻にあるそばかすには見覚えがあった。この世界で私を助けてくれた人。私が好きになった人。私の、王子様。


「出久くんだぁ」


自分の"個性"、そして使い方を思い出したおかげで……何より出久くんの血を体内に取り込んでいたおかげで彼になることができた。相手の血を飲み、その人になると意識すればなれる"個性"。先ほどまでの吐き気はどこかへ飛んでいってしまった。彼になれた幸せな気持ちのままうっとりしていたが、やはり少量しか舐めなかったせいかすぐに顔がどろりと崩れていく。いやだ、待って。せっかく鏡越しでもまた会えたのに。


「あ、あぁ……まってっ」


無情にも彼になる前の私、本来の姿に戻ってしまい鏡に頭を預ける。なんの音も聞こえない部屋でいつの間にか呼吸を忘れていたことに気づいたのは息苦しさを感じたからだ。深呼吸をして冷静になれた頭で考えるのは今後のことだ。

思い出した通りならば、私は自分の普通を斎藤くんに受け入れてもらえなかったショックと、これ以上両親の望む普通を押しつけられるのが嫌で中学の卒業式後に家を飛び出した。私の身体能力の高さは一年以上もの間誰にも見つからないよう逃げ回っていたおかげだろう。血を好み欲求を満たすために動物の血を啜る私を不気味に思っていた両親のことだ。記憶喪失だと知りさぞ喜んだはずである。厄介なのは両親が私のためを思って普通を押しつけたことだ。ただ血を求める私を気味悪がり、愛していなかったのなら二人を嫌いになれたのに。前世の母親は大嫌いだったけれど、渡我なまえの記憶をどれだけ思い出しても今世の両親が嫌いだという思いが微塵も見つからなかった。そもそも嫌いならば彼らに言われたとおり普通の仮面を被って生活なんかしない。


「話、しなきゃ」


両親と話をしなければいけない。口に出してやるべきことを再確認できた私は机まで足を進める。半分に折りたたまれた紙を開けば記されているのは愛しい人の連絡先。会いたい、早く会いたいよ、出久くん。自分の腕で自分を抱きしめながら蹲る。忘れていた吐き気が私を不快にさせ、紙を指で撫でてから引き出しにしまった。下着だけを身にまとったところで限界が来てしまいベッドに倒れこむ。


「出久くん」


私、ちゃんとお話するよ。二人と話して、この世界できちんと生きていけるようにする。前に誓ったときとは違って普通には生きられないかもしれないけど、頑張るから。

だから。


「私を、拒絶しないでね」


あなたにまで私の普通を否定されたら、きっと私はこの世界で生きていけないだろうから。







目覚めとしては悪くなかった。気分の悪さはすっかりなくなり、私は鼻歌交じりに部屋にあった服に袖を通す。赤いリボンのついたトップスに、淡いピンクのプリーツスカート。鏡の前でくるりと一回転して気合いを入れるように両手で頬を軽く叩いた。


「よしっ」


自分の部屋を出て向かうのはリビングだ。一歩ごとに漂ってくる良い匂いに私のお腹が空腹を訴える。リビングの扉を開けばキッチンに立つ母親と食器を並べる父親に迎えられた。


「あら。おはようなまえちゃん。よく眠れたかしら」
「おはようなまえ」
「おはようございます。あ、まず顔洗ってきますね」


顔を洗ったり髪の毛を梳かしたりしたあと、三人で食卓を囲む。おいしい、おいしいとにっこり笑いながら食べる私に二人は口を開けてこちらを見ていた。当然だ、昨日は無表情で頷いたりするだけで、彼らの言葉に良い反応はしていない。昨夜の会話の中で二人が今日仕事を休むのは知っている。仕事ならば夜まで待とうと思ったが、仕事でないならすぐにでもいいだろう。全員が食べ終わり、母親が食器を洗っているところで手伝うと隣に立てば嬉しそうに目を細められた。偉いなあと父親に褒められて、母親も笑って。物語でしか見たことがなかった幸せな家庭は、きっと私が何もしなければ続いていく。でも、それじゃあダメなのだ。


「――ママ、パパ」


息を呑んだのは果たして母か、父か。二人を交互に見つめながら、出しっ放しのままの水の音を聞いていた。


「お話があるの」


再会してはじめてママ、パパと呼び、敬語を外した私にいち早く察したのはきっと父だ。全ては出久くんのために。出久くんと、また会うためだけに。


13.まだ君を傷つけたい



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