桜が散るのは、驚くほどに早い。たわわに花を実らせたその後は、はらりはらりと散りゆくばかり。
時も止めずに舞う花弁は、やがて数も少なに緑の葉へととって変わる。そんな日々を今までとは違い、外で眺めやる私を、家族は戸惑いながらも止めはしなかった。
見上げるこの桜も、もう花弁の残りを僅かに変えてしまっている。彼と巡りあわせてくれたこの花の終わりを、彼と出会ってからの時間の経過として眺める以外に感慨を抱いて眺めることはないけれど、それはつまり、その中に嫌悪も含まなくなったということ。
きれいだと、彼のように思えるにはまだ遠そうだけれど、この木の下で彼を待つ時間は、少し楽しいと......ほのかに、感じていた。
弐・桜の下の逢瀬
また、を約束した彼を、その約束を交わした場所で待ち、数日。出会ったあの時間帯くらいを目安にしばらく待って、そうして会えない日々に少し落胆しながら帰路に着く。それでも諦めずに毎日毎日通い続け、いつしか桜の花弁は緑の葉へと姿を変えてしまっていた。
立花と名乗った彼のお家を知らないわけではない。けれど、どうしても押しかけることは躊躇われてしまうのだ。
迷惑にはなりたくない。
そう思い行動に移せない私はきっと、ひどく臆病なのだろう。
薄紅の花弁が緑に移ろう時、私はいつも安堵にも似た感情を抱く。嫌でも思い知らせようとしてくるあの色を、もう見なくて済むのだと思うから。
だけど今は......その移り変わりが、ひどく寂しい。
もうほとんどが緑の領分となってしまった目の前の木を見上げ、私は小さく息を吐くと、今日も諦めを胸に家へと帰るため身を翻す。もしかしたら、彼の紡いだまたは、単なる社交辞令に過ぎなかったのではないか。脳裏をよぎったそんな思考に、きゅっと胸が締め付けられるような想いを抱いて、私は慌てて首を振った。
悲観しすぎるのは私の悪い癖だ。彼はきっと、そんなひとではないだろう。
よく知りもしないけれど、だからこそ自分に言い聞かせるように強く思った。大丈夫だと、そんな願いも込めて。
「あれ、もしかして葉桜も好きじゃない?」
そんな時だった。私の耳を、待ち望んだ声音が打ったのは。
はっとして、俯いてしまっていた顔を上げる。その視線の先ではあの時の彼が......私が、会いたいと望み待っていた睦月くんが、あの時と同じ笑みを浮かべて立っていた。
すごく、すごく会いたかったひと。私の髪を、疎わずにいてくれたひと。
そんな彼が、再び私の目の前にいる。それだけで、何故か泣きたくなるような想いが込み上げてきた。
「もうすっかり葉桜になっちゃったな。俺としてはもう少し、桜を満喫したかったんだけどさ」
「............」
「あ、ごめん。桜はあんまり好きじゃないんだったな」
思い出したように慌てて気遣ってくれる睦月くんに、緩々と首を振って応える。それを気にするよりも、私にとって、彼に名前を呼んでもらえたことの方がとても嬉しかった。
私の答えに、そっかと小さく笑ってくれた睦月くんは、それから傍らの桜の木を見上げた。すっかり葉ばかりになってしまったそれを、それでも彼は眩しそうに見つめる。
少しだけ、ほんの少しだけ、そんな風に彼の視線を独り占めする桜の木が、羨ましく思えてしまった。
「俺さ、いつもあんまり桜を眺めていられなくて。だからたまにはもっとじっくり眺めたいというか」
「......眺めて、いられない?」
それは、見たくないから見ないという私とは違い、なにか別の理由から、見たいけれど見ることが叶わないといった言葉に感じられる。どういうことかと思わず首を傾げてしまえば、睦月くんは少し寂しそうに私へと笑いかけた。
私の方が切なくなってしまうような、そんな、笑みで。
「俺、生まれつきあんまり丈夫じゃないんだ」
「あ......」
それで、あれから会うことが叶わなかったのだろうか。
そんなことを考えながら、次いで思い浮かんだのは彼の笑顔。私は、もしかしたら彼にとって聞かれたくないことを訊いてしまったのかもしれない。
そう思い至ると、目の前が急に真っ暗に染まる。
どうしよう......。嫌われたくは、ないのに。
嫌に早鐘を打つ鼓動が、必要以上にうるさく聞こえる。言い繕う言葉も思い浮かばず、どうしていいかわからない思考が、纏まりなくぐるぐると巡った。
どうしよう、どうしよう。
その言葉ばかりが私のこころを支配する中、ふいに小さな笑い声が聞こえたような気がして、私は恐る恐るゆっくりと再び顔を上げた。そうして見上げた先で、睦月くんが優しく笑いかけてくれている姿が視界に入る。
今度は、先程の寂しさを感じさせない、彼の笑顔。
「気にしなくて大丈夫だよ。ほら、さっきも言っただろ? 生まれつきだから、慣れてるんだ」
うそ。そんなはず、ない。
だってそれなら、どうしてあんなに悲しい顔をしたの? 本当はきっと、たくさん悲しい思いを抱えていて、たくさん我慢をしているのでしょう?
そのくらい私にもわかるのに、情けなくも気の利いた言葉は何ひとつ、この口を吐いて出ることはなかった。
悔しくて、悲しくて、泣きたくなる。どうして私はこうなのだろう。彼は私にあたたかな言葉をくれたというのに、私はそんな彼に何ひとつ、返すことができずにいる。
なんて、情けないのだろう。
「えー、と。あ、そうだ、桜、またここで会えるなんて偶然だよな」
「......え?」
「もしかして、俺を待っててくれた、とか?」
指摘された言葉に、瞬時に顔に熱が集まっていくのを自覚した。後になって思えば、これは彼の気遣いだったのだと思えるが、今の私はそれまでの思考もすべて吹き飛ばすほどの羞恥に、なにも考えられなくなってしまう。
変な子だと、思われたかもしれない。待ち伏せをしているようで、気持ちの悪い子だと思われたかもしれない。
あまりの恥ずかしさに目に涙すら浮かんでくるのをなんとか堪えながら、それでも恐る恐る睦月くんの様子を窺う。これで彼が侮蔑の視線を向けてきていたら、きっと私は耐えきれなかった。
けれどもちろん、睦月くんはそんなひとではなく、むしろ......。
何故か、彼も顔を真っ赤に染め上げていた。
「あ、いや、ごめん。その、冗談......の、つもりだったんだけどさ」
片手で口元を覆い赤い顔を隠すように私から背けるその姿に、私は自分の羞恥すら忘れて茫然と見入ってしまう。
どうして、彼まで真っ赤なのだろう。
未だ熱の冷めやらないまま、それでも不思議に思っていると、睦月くんもそのままの顔で頭を掻き、それからはにかむような笑顔を私へと向けてくれる。
その笑顔に、とくんとくんと、私の胸が緩やかな鼓動に少しだけ大きく跳ねていた。
それはとても......心地の良い、響き。
「ありがとう。その......すごく、嬉しい。俺も桜に会えないかと思ってここに来たから」
とくんとくんと脈打っていた鼓動が、少し大きく跳ね始める。速さも増したその鼓動に伴うこの感情の名を、私は確かに知っていた。
これは、この、感情は......。
......嬉しい、だ。
改めて顔に熱が集まりだし、その熱量にくらくらと目眩がする。高鳴る心臓は、そのままはち切れてしまうのではないかとさえ思えてしまう。
「あのさ、桜。今日はもう少しだけ......話して、いかないか?」
私と同じ色をした顔のまま、照れたように優しく笑って告げる彼の誘いを、私が断ることなどなかった。
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