「桜、嫌いなのか?」
問われて思わず肩が跳ねてしまう。それが私以外の誰かに話しかけたものなら良かったのだけれど、恐る恐る振り向いた先にいた男の子は、どう見ても私を見ていた。
誰、だろう。
村付き合いに極端に乏しい私は、少ないこの村の住人とて満足に覚えきれていない。同年代の子、ということを前提に思い返してみても、記憶から引き出せる相手はいなかった。
どうしよう。
あまり多弁でもなければ、人見知りをしないわけでもない私は、とにかくここから立ち去りたくて、混乱からうまく働かない頭をそのために巡らせる。
「あ、ごめん、急に話しかけたりして。驚かせたよな。えー、と」
......?
なにか困ったような唸り声にちらりと目を上げれば、申し訳なさそうに頭を掻く男の子の様子が窺えた。どうしてそんな顔をするのかがわからず、私にはなにを口にできることもなく、ただただ彼を窺うことしかできない。
よければ、立ち去らせてもらいたいのだけれど。そう考える私の希望も素知らぬ彼は、やや置いて再び言の葉を口に乗せた。
「ごめん。俺、君の名前知らないんだ。俺は立花睦月。君は?」
立花......。あの、立花家の、子......?
村付き合いなんてほとんどしていない私でも、彼の口にしたその名の話くらいは聞いたことがある。だって、そこは......。
双子のいる、お家だから。
「えー、と、もしかして、聞いたら悪いことだった?」
「え?」
なにが、だろう。思わず首を傾げて思い返せば、名前を訊かれていたのだったと思い至る。同時に、顔に熱が集まっていくのを自覚した。
は、恥ずかしい。いくら他人との接触に慣れていないからといって、これではさすがに礼を欠きすぎてしまう。
羞恥から目線を下げてしまいながらも、それでも私は小さく答えだけは紡いだ。
「あ、その、桜と、いいます」
「桜? よろしく」
あ......。
ふ、と。柔らかに微笑んだ彼の笑顔が、どうしてだろう、なんだかとても......儚く、見えた。
それは、はらりはらりと辺りを舞う薄紅の花弁などよりよほど......。
「桜」
「え?」
「きれいだと思うよ、俺は」
ああ、そうか。
それは最初に振られた話。問いかけ。
桜、嫌いなのか。
問われた言葉と今の言葉を思い返しながら、私は傍らを仰ぎ見る。狂おしいまでに咲き誇るそれに、先程までと違う感情を抱くことはない。
けど、これを見てきれいだと思うひとを前に思いのままを伝えてしまうことも気が引けて......。どう答えようかと悩んでいると、小さな笑い声が聞こえてきた。
「眉間、皺寄ってる」
とんとん、と、軽く自分の眉間を指で指し示し告げる彼に、私は反射的に自分の額を手のひらで押さえる。とっさに隠すようにとったその行動は、またも彼の笑いを誘ってしまった。
「よっぽど嫌いなんだな、桜」
咎める響きは、ない。けれど、そう指摘されたことがなんだか少し腹立たしいようなそんな気がして、私は額から手を離すと、また俯いてしまった。
なんなのだろう。彼は、いったいなにがしたいのだろう。
「い......」
「ん?」
「いけま、せんか?」
桜が嫌いだと、なにかいけないのか。
それは確かに珍しい嗜好かもしれないけれど、だけど彼にどうこう言われる筋合いは、ない。
ぎゅっと唇を噛み締めて思うことは、なにも知らないくせに、という燻るような苛立ちだった。
なにも、知らないくせに。
この髪のことも。私のことも。
こんな髪でさえなければ、そうすれば、私だって......。
「いけなくないけど、もったいないかなって。......だって」
ふいに。頭にかかる、柔らかな重み。それがなにかわからなくて思わず肩を揺らせれば、その重みは静かに離れていった。
同時に微かに引かれる、右側の髪。
「きれいだから。......おんなじ色」
顔を上げる。
知らないくせに、勝手なこと言わないで。
そう喉まで出かかった言の葉が、口の中で消えてしまった。
だって。
だって......。
私の髪を、みんなが忌み嫌うこんな色の髪を。
躊躇いもせず引き寄せて微笑む彼の眼差しが、真っ黒なきれいな瞳が。
優しく、優しく、まっすぐに私を見つめていたから。
その優しさが、触れたこともないような柔らかさが、私から、すべてを奪っていくような気さえしたのだ。
「あ......」
どうしよう、どうしよう。
なにを言えばいい。なにを伝えればいい。
私は、彼に、なにを伝えたいのだろう。
「あ、ごめん。軽々しすぎたな」
ぱっ、と、思い出したように、慌てて引かれてしまう手を名残惜しくさえ感じてしまい、それを隠すように、苦笑を浮かべる彼に小さく首を振った。
きれいだなんて、この髪をそんな風に言ってくれるひとは初めてで、だから、なのだろうか。胸が、早鐘を打って苦しい。
嬉しいような、でもどう答えていいかわからない困惑。ただただ俯くことしかできない私は、彼の目に、どう映っているのだろう。
......嫌な子だと、思われたくはないのだけれど。
誰かに対してそんなことを思うのも初めてな私は、いつもと違う自分の感情に戸惑ってしまう。そうしてまた言葉を紡げないという悪循環に陥り、結局は彼にまともな言葉など返すことができないのだ。
「引き止めちゃって、ごめん。俺もそろそろ行かないとだし、またな、桜」
あ......。私の、名前......。
覚えてくれたのだと思うと、なんだかとても嬉しくて。思わず顔を上げた時には、彼はもう立ち去ろうとしているところだった。
どうしよう、どうしよう......。
待って、まだ......、私、は......。
私、は......こんな別れ方は、いや。
初めて出会ったひとだけれど、でも、私のこの髪を認めてくれた奇特なひと。
私自身ですら認めてあげられないこの髪を、きれいだといってくれた......やさしい、ひと。
彼は私に言ってくれた。
さようならではなく、また、と。
私も......私も、さようならではなくて、また、がいい。だから......。
「あ、あの......、む、睦月、くんっ」
あるだけの勇気を振り絞る。今使わなければ後悔することなど、わかりきっているのだから。
名前を呼んだだけなのに、それがなんだかとても気恥ずかしくて、顔から火が出るような想いを抱く。心臓が飛び出してしまうのではないかと思うくらいにうるさくて、耐えるように強く拳を握りしめた私は、ぎゅっと目を瞑ったまま、それでもなんとか続きを口にした。
「ま、また、ね」
短い言の葉。そこにどれだけの想いを込めたかなど、私にもわからない。ただただ必死に言葉にした想いを吐き出し、そうして私はゆっくりと目を開ける。
彼が、まだそこにいてくれていることを、願って。
「うん、また」
もう一度、しっかりと返してくれた言葉。加えられる、やさしい、笑み。
どくんどくんと強く主張してくる鼓動に、私はしばらく、彼の背を見つめたまま動けずにいた。
壱・桜がくれた、はじまり
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