聖者と魅惑
少しずつ、意識が浮上してゆく感覚。しかしそれははっきりとした明瞭さを得ることはなく、ぼんやりと靄がかかったかのように白い。
ここがどこか、自分が何故ここにいるのか、何をしていたのかがわからない。何か大事な用事があったような気がするが、記憶を追うことが叶わないのだ。
どこを見ているのか自分でもわからず焦点の定まらない瞳のままただぼんやりとしていると、ふと頭の中に知らない声が響いてきた。
――享楽せよ……。
声をかけられた、というよりも、頭に直接語りかけられた、といった感覚。それに何かしらの想いを抱くこともできず、梓董はただぼんやりとその声を響くがままにしておいた。
――我、汝が心の声なり……。今を享楽せよ……。見えざるものは幻……形ある“今”だけが真実……。
意味がわからない。一体何を言っているのだ、この声は。心の声? 自分がそう、望んでいるとでもいうのか。
今を享楽したい、などと。
「……馬鹿げてる」
くだらない。
何を享楽しろというのかはわからないが、形あるものばかりが真実だなどと、そんなわけがあるか。
淡泊に否定したその時、多少だが頭の靄が晴れた気がした。どこからか水音が聞こえてくるような気がする。
――未来など幻想、記憶など虚構……欲するまま、束縛から解き放たれよ……。汝、それを望む者なり……。
一体何だというのだ。随分と高圧的に、そして高慢に、こちらの意志を決めつけてくれる。誰がそんなことを言ったというのだ。
「……勝手に決めるな」
そうだ、自分の意志は自分で決める。ごちゃごちゃと勝手な横槍を入れないでもらいたい。
――汝、真に求むるは快楽なり。汝、今まさに快楽の扉の前にあり。本心に耳を傾けよ……汝、享楽せよ……。
いい加減しつこすぎはしないか。大体、快楽など……。
「……っ! 戒凪っ! 戒凪っっ!!」
頭に響いていた不快な声を追い払い、耳に届いた少し高めのその声に弾かれるようにして我に返る。
霞がかっていた視界や、靄がかかっていた頭の中が現実に引き戻されてゆく感覚。明瞭さを取り戻したそれらで肩の辺りに感じる熱と、眼前で心配そうに揺れるアオとをはっきりと捉えた。
「……イル?」
「戒凪……。良かったあ……通信が届かなくなったって聞いて、あたし心配で……」
しっかりと自己を取り戻した眼差しで捉える先で、アオの持ち主、イルが安堵に息を吐く。眉尻を下げ、まだ少し不安を拭い切れていないような笑みを浮かべた彼女は、真っ直ぐに梓董を見つめる。
「戒凪、怪我は? 痛いところとか、ない?」
真摯に問われ思いあぐねれば、何となく痛みを訴えてくる場所がただ一箇所だけあることに気が付いた。
「……肩」
「へ?」
「肩、少し痛い」
告げればイルは思い切り目を見開き、慌てた様子で梓董から距離を取る。同時に、肩に込められていた熱が僅か遠退いた。
「わあ、ごめんね!? い、痛かった!? あたし、つい力加減間違えて……!?」
……なるほど、肩の熱はイルに原因があったのか。
察するに、梓董を案じ、その意識を戻す過程で肩に両手をつき揺さぶってでもいたのだろう。この痛みがその心配の表れだとするなら、少しばかり嬉しく思える気もした。
「まあ、あえて言うならだし、大丈夫」
「そ、そう? なら、良かった」
今度こそ純粋に安堵に笑むイルを見やり、それから梓董は自身の身の周りの把握に務める。
どうやらここはホテルの一室で、自分は備え付けのベッドに腰を下ろした状態だったらしい。大型シャドウと戦ったあの部屋ではないようなのだが、どうやってここまで来たかも思い出せない。
とはいえおそらくまだもう一体いるとされる大型シャドウは倒せていないだろう。とりあえずそれを倒しに向かわねば。
そう判断したところで、今まで聞こえてきていた水音が唐突に止んだ。そう言えばそんな音も聞こえていたな、程度にしか覚えていなかったが、もしかしたらこの部屋に他にもまだ誰かいるのかもしれない。
とりあえずイルと二人、その水音がした方向……バスルームに続くらしい扉を見やれば、ほどなくしてそこから岳羽が姿を現した。
……タオルだけを、身に付けた姿で。
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