若干一名初対面
忘れていたつもりはないのだが、どうにも眼前の少女の雰囲気に流されてしまったようだ。
「……お前、こんな夜中にどこに行く気だ? 怪我してんだから大人しく帰れ」
有無を言わさず帰らせた方が手っ取り早いと、僅かに声音を低めて咎める響きを宿し紡ぐ。
しかしやはりこの少女は怖じないらしい。
軽く目を瞬かせた後、それでも浮かべ直した笑みは絶やさず言葉を返してきた。
「ご心配、ありがとうございます。でももう大丈夫なので。それにあたし、死にませんし」
「別に心配なんざして……」
言いかけて、ふと気付いて言葉を区切る。
条件反射のように否定しようとしたその箇所よりも、もっと別に突っ込むべき内容があるように思えたのだ。
荒垣は先程の彼女の言葉の内容を思い返し、僅かに眉根を寄せた。
死なない、と。
確かに彼女はそう紡いだはず。
それはまあ、あの一撃で死ぬようなことはないだろうが、彼女の言葉の先がそこに向けられているようには何故か思えず。真意がどこにあるか荒垣が問うより早く、彼女の方が思い出した様子で言葉を紡いだ。
「あ、そうだ。あたしだけ初対面だったんですよね。あたし、イルっていいます」
イル……。それは本名なのだろうか。
とてもそうとは思えないと思いながら、思考がずれてしまったことに気付きすぐさま戻す。
しかしその時には既にイルと名乗った少女は荒垣に頭を下げ、背を向けていた。
再び歩き出した彼女の向かう先は、モールの出口ではなく奥の路地。
「お、おい!」
確かそちらは行き止まりだったはず、と。
僅か遅れてイルの後を追うが。
「……どういう、ことだ?」
イルが入っていったはずの路地にはやはり先はなく。それなのに彼女の姿はどこにも存在せずに、ただ行き止まりの壁が荒垣を迎えるだけ。
消えた。
馬鹿馬鹿しく思えるその単語が、しかし現状を言い表すのに最も相応しく思える。
「……なん、だったんだ……」
小さく呟かれたその言葉は。
誰に聞き止められることなく緩やかに宙へと溶けていった。
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