若干一名初対面
むしろ聞くな、と、彼のなんでもないという一言が強く語っていたように思える。
「はい。ありがとうございました」
「……何もしてねえよ。……もう来んな」
軽く頭を下げる梓董につられるよう、他の皆も口々に礼を紡ぎつつ頭を下げた。
その様子に僅かに目を細めて答え、低く釘を刺した荒垣は今度こそこの場を立ち去る。その背を見送り、とりあえずは目的を果たせた……というよりも、収穫があったため、荒垣の忠告通り寮へと帰ろうと皆の中で話が進んだ。
自然な流れのようにも思えるその中で、ふいにイルが一人、何故か他の皆から僅かに離れて振り向いた。
「あたし、用があるから」
「へ?」
先輩達からの説教は任せるね、と。これからあるだろう憂鬱なイベントを軽く押しつけ、彼女は手を振る。
どういうことかと、虚を突かれて間の抜けた声を出す伊織と、視線で問う梓董にごめんねと謝り、それから彼女の視線は岳羽へと移った。冷たく射竦めるようなその視線は、まるであの満月の日の時のように冷涼に鋭い。
「自分で責任取れないなら、軽はずみな言動はしないで。危ない、っていう忠告も、行きたくない、っていう意思表示も無視したキミの行動が招いた現実、ちゃんと覚えておいて」
「……っ!」
伊織の忠告、そして梓董の意志。
それを無視した強行の上でのあの発言。気持ちはわからなくもないが、軽率であったと言わざるを得ない。
何せ、その先に待っていたのは、イルが殴られたという結果だったのだから。
彼女が庇わなければ、あの時殴られていたのは間違いなく伊織だっただろう。
つまり、殴った男の神経を逆撫でた発言をした岳羽本人は、どのみち何の害も受けなかったということになる。
結果を見れば、彼女がとった言動の代償を、イルが払わさせられた形となったわけだ。
ただ、イルの発言はそれに憤ってのものではなく、次にまた同じことをしないようにという牽制の響きを宿していた。
何か言い返したそうにむっとした表情を浮かべた岳羽は、しかし殴られた当人の手前、何も言い返せないようで。
言い方はともかく、イルの言っていることに間違いはないこともまた、言い返せない要因となっていることだろう。
満ちる剣呑な空気を面倒に思い溜息を吐く梓董と、あたふたと慌てる伊織とを気にせず、イルはそのまま身を翻した。用があると言っていたが、いくらなんでもこんな夜中に女の子を一人で、しかも殴られた後だというのに放っておけるわけがない。
さすがの梓董も面倒に収めず、素早くイルの手を取り引き止める。
「……用なら明日にすればいい」
だから今日は大人しく帰れ、という意味を含めて。
さすがに殴られたというのに長々と説教をするほど、先輩方も人が悪くはないだろう。説教が嫌だからという理由ならば、それほど杞憂せずともいいように思える。
しかしそんな梓董の思考には気付かず。イルは僅かに悩む素振りを見せた後、それでも緩やかに笑って首を振った。
「うん、でも、あたしならだいじょうぶだから」
やんわりと解かれた手が、何故こうももどかしく思えるのか。
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