不協和音
思い至った様子の岳羽の声は、状況を伝える桐条の焦燥に駆られた言葉にかき消される。
時間がない。
どうするか考えるよりも、とにかくどうにかしなければ。それをすぐさま行動に移し動き出したのは梓董とイル、ほぼ同時で。
二人は共に、素早く運転席へと駆け込んだ。
「ブレーキは、って、え、それ!?」
「さあ、勘」
「勘って、戒凪!」
あっさりと何の躊躇いもなく勘だと言い放ち、その言葉に違わずその辺のものを適当にいじりだす梓董。そんな彼に困惑と焦燥に彩られた悲鳴じみた声を上げたイルは、正面の窓から見える間近に迫った前方車両の姿を目に、考えるよりも先に弾かれるように動き出す。
梓董へと、向かって。
直後、辺りに盛大に響いた甲高いブレーキ音と、強くかかる遠心力。後方から岳羽の悲鳴が聞こえたような気がしたが、今はそれどころではなかった。
「……イル、苦しい」
ぎゅっと、抱きしめるように強く回されたその腕の中から何とか口元だけを出し。梓董が小さくそう告げれば、すぐ傍から間の抜けた声が聞こえてくる。
「へ? ……止まっ、た?」
梓董を守ろうとするかのように彼を抱き寄せ抱きしめていたイルは、きょとんと辺りを見渡し。それから弾かれるように慌てて梓董から腕を離すと、今度は両手で彼の頬を挟み込み、至近距離で彼の瞳を見つめてきた。
「戒凪、怪我は!? 痛いとことかない!?」
不安そうに、心配そうに揺れるアオの瞳。その双眸はあまりにも真剣で必死で……心から梓董を心配しているのだとひしひしと強く伝わってくる。
「……平気」
「本当? ……良かったあ……」
泣き出すのではないかとすら思えるような震える声音で。心底ほっとした笑みを浮かべて告げるイルに、何故か少し戸惑ってしまった。
無条件の心配と安堵を向けられることに、慣れてはいないのだ。
「……皆は?」
戸惑う内心は押し隠して。いつものポーカーフェイスでそう問う梓董と共に、イルも他の二人の様子を見に乗客用の車両の方へと戻ってみる。
そこには床に座り込みつつも、大きな怪我などは見受けられない岳羽と伊織の姿があった。
どうやら全員無事だったようだ。
桐条から労いの言葉がかかり、ようやく一段落し人心地つけたような気がした。
「なあ、帰り、なんか食ってかねぇ? 安心したらハラ減っちったよ」
息を吐き、そう切り出したのは伊織。彼は何の気なしにただ自分が思った通りに口を開いただけなのだろうが、その言葉を受けた岳羽はやや躊躇い気味の視線をイルへと向ける。
その様子に気付き、さすがに伊織も空気を読んだらしい。戸惑うように頭を掻きながら、視線を僅かに泳がせた。
「……あたし、先に」
「イル」
イルが言葉を紡ぎきるより早く、続きを制したのは彼女の傍らに立つ梓董で。他でもない梓董からの声だからか、イルは言葉を詰まらせる。
その様子に、伊織が意を決した様子で笑みを浮かべた。
「……もちろん、イルも一緒に、な!」
「そうだね。軽いものなら付き合ってもいいよ。ただし、順平の奢りだから」
「なんでだよ!?」
変わらぬ態度で接してくれる伊織と岳羽は、きっと彼らなりに気を遣ってくれているのだろう。わかってはいるだろうに、なかなか一歩が踏み出せずにいるイルは、やはり頑固なのかもしれない、と。梓董が溜息混じりにその背を押してやった。
「……行こう、イル」
「戒凪……」
多分、だけど。彼女は梓董の言葉なら断らないという確信にも似た感覚を抱く。
それを使ってあえてそう言うのは少し狡いような気もするが、何となく、何となく、だが。
それが特権のように思えて……。
ふいにそう考え至ってしまい、梓董はすぐにその思考を打ち消した。
出会ったばかりの少女に一体何を思っているのだろう。これは気のせい、もしくは気の迷いの一種だと言い聞かせるように思い込む。
そんな梓董の内心など知らないイルは、ややあってからおずおずと小さく頷いた。
「……うん。あの、あたしも、行く」
少しずつ、少しずつ。
それぞれの中に、それぞれの想いが広がっていくその様を。
丸く丸く照る月が、ただ静かに見下ろしていた。
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