進むための
理性なんて、感情の前では無力なのだと思い知らされた。
わかっていて、それでも踏み出せないのは己の弱さ故なのだろうか。これを弱さとするならば、果たしてそれはいけないことなのだろうか。
ぐるぐると巡り廻る負の感情の連鎖に、多分きっと、同情も叱咤も欲してはいなかっただろうと、どこか遠く思う。
温もりを求めないわけではない。満たされる何かが得られるなら、それはきっと乗り越える強さにもなるだろう。
けれど。けれど、今は……。
「君は、逃げないんだな」
ふいに呟き、そうして振り向く。振り返った先で迎えたそれもまた、空の色にも似たアオだった。
「……向き合う、ことから」
彼女はあの夜言っていた。自己満足だ、と。
けれどそれならば、こうして幾度も桐条と向き合おうとする必要こそないのではないだろうか。幾度も、傷つく必要などないのではないか。
もちろん桐条に彼女を傷つける意図などありはしない。けれど、彼女に限ったことではないにせよ、誰かに対し気遣う余裕など今の桐条にはなくて。彼女を恨むことは違っているし、恨みたくなどないという思いが一線を踏みとどまらせているけれど、渦巻く負の感情はいつだって理性を連れ去れることくらい自覚していた。
いつか、立ち直る時がくる。
まだその片鱗すらも見つけることはできていないけれど、それでも多分、その日は来るのだろう。
梓董や天田、真田がそうであるように。
イルからすれば、その時をただ待つでも構わないはずだ。また笑って言葉を交わせるようになるだろう、その時を。
そう思う桐条だが、それでもそれをイルは是とはしないのだろう。
だから彼女は今ここにいて、そうしてまっすぐにこちらを見つめているのだろうから。
「あたしは……あたしの、ただひとつは戒凪です。それはどうしたって変わりようがないし、揺るぎようもない。けど……それでも、その中で失いたくないものだってあるし、大切なものだってある。あたしは、美鶴先輩と築いたものをなくしたくはないんです。繋いだものを、なくしたくはないんです」
全部全部、欲張りな自分のわがままだけれど。そう括るイルのアオは、やはりどこまでもまっすぐで、ああ、だからかと小さく思わさせられた。
大切だと、想ってくれているのだ。いつでも、今でも。繋がったものを離したくないと、望んでくれているのだ、彼女は。
その想いの強さが、きっと彼女が傷付くことも覚悟して今ここにこうして立っている理由なのだろう。
ただ、桐条が大切だから。大事な、友人だから。
そんな、単純だけれどどこまでも暖かい理由を、彼女はずっとずっと桐条に向け続けてくれていた。
目を逸らしていたのも、耳を塞いでいたのも、悲しみに捕らわれ続けていた桐条の方だけだったのだ。
「結子も理緒も、同じです。ふたりも、美鶴先輩のこと大事な友達だと思ってるから、だから……」
西脇も岩崎も、そしてイルも。こんなにも自分を想ってくれている友人がいてくれることが、それを改めて教えてもらえたことが、光に、なるだろうか。
この暗く冷えた世界に差し込む、光明となってくれるのだろうか。
すぐにそうなるにはまだ気持ちが追い付いてはくれないが、けれどそう、確かに感じ ていた。
きっと、そうなるはずだ、と。
「……ありがとう、イル。結子も理緒も。今はまだ応えるだけの気持ちの整理がつかないが……少し、気が楽になった気がするよ」
嘘ではない。浮上しきるには遠くても、彼女らの存在が支えになるだろうことは揺るぎない事実だろうから。
大切だと、想う気持ちは桐条とて同じなのだ。ただそれを、今は優先できずにいるだけで。
「……美鶴先輩、修学旅行、少しでも一緒に行動しましょうね。結子と理緒も、楽しみにしてますから」
どきりとした。まるで、見透かされていたかのようで。
間近に迫った修学旅行。二・三年が合同で赴くそれを、桐条は辞退するつもりでいたのだ。それを彼女は……いや、もしかしたら彼女らは、察していたのかもしれない。
否定するには申し訳なく、かと言って肯定しきれる心持ちにない心情から、桐条はただ曖昧に視線を落とし、そうだなとだけ呟いた。そうすることで、また一つ逃げていることになるのだとはわかっていたけれど、それでもやはり、前を向くにはまだ時を要するのだ。
その答えにイルが納得したかはわからない。わからないが、少し風に当たりたいと告げた桐条の言葉に暗に含まれる意図を理解してくれた彼女は、今はただ一人この場を後にしてくれた。
その配慮に内心で感謝して、桐条はもう一度空を仰ぐ。澄んだ蒼はやはり眩しく、そして。
ただただ、どこまでも遠かった。
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