曇天



迷うことも、悩むことも。もうないと思っていた。

大切なただ一つを選び、それを想い、それが全てだと思っていたから。

その想いに今も揺るぎはない。根底はそこに在り、そしてそこから動いている。

だから、だけど。

触れれば大切なものは増えていくんだと、知らなかったわけでは、なかったのに......。







《11/08 曇天》







忙しい。
わかっていたことではあるが、唐突にトップを喪った桐条グループは、その存在の大きさに比例して、内外問わず騒然とし、見えない収束を追い求めていた。一人娘である桐条がその中心となるのも、普段の彼女がグループの経営にも携わってきたことからして頷ける話だが、だからといってその荷が重くないということは決してない。

誰よりも大切だった父を喪った悲しみすらも忙殺される目まぐるしさは、ある意味では支えでも救いでもある。例え機械的となろうとも、動くことを忘れずにもいられるし、狂おしいほどの悲しみに囚われ、我を忘れてしまわずにもいられるのだから。

たとえそれが、現実から目を背けているだけだと、わかってはいても。

書類に目を通し、必要であればそこにサインを刻み判を捺していく。その間にも関係者や諸々に指示を出す作業もねじ込まれ、そうして休む暇もなく応接に繰り出す。考えに耽る暇もないような過密なスケジュールに体力をもっていかれながら、空が暗く染まってなお、桐条は机上で格闘していた。

終わりは、まだ見えない。その方がいいかもしれないと、ふとよぎった思考に自嘲する。まだ現実と向き合う勇気は持てずにいた。

父のいないグループはこんなにも忙しく慌ただしいのに、書類や人々の会話からも事実を突きつけられ続けているというのに。

まだ、実感が、ない。

まだ会える気がして、声が聞ける気がして、そうして縋り続けているのだ…… 幻に。

紙の上を走らせていたペンを止める。小さく息を吐き出せば、何だかどっと疲れたような気がしてきた。

張り詰めていた気を少しだけ緩め、先日届いたメールの内容を思い返す。

とりあえず、何が起きてもいいよう準備だけは怠らず、影時間に関しては様子をみる。そんな内容の、真田からのメールだった。

影時間。思い出しついでに時計を見れば、あと僅かほどでその時間が来ると知れる。終わったとばかり思い、そのためにずっと命を懸けてきた毎日。

滑稽だ。何もかも。全て、すべて。

命を懸けて、日常を切り離して、そうしてこの手に残ったものは、一体何だ。大切な大切な、何ものにも代え難い存在をこの手から滑り落として、そうして自分に何が残った。

……やめよう。考えれば考えるほど無情な痛みに心が沈む。今はとにかく仕事に集中し、思考を取り去ることが先決だ。

そう改め、再び手を動かし始めてから少し。ふっと、電気が落ちる。

途端に広がる暗闇は、けれど窓から差し込む僅かな光明を受け入れ微かに明るい。ともすれば停電のように思えるこの状況は、桐条にとっては見慣れたもの。そんな緑の暗闇に、どうしても胸が締め付けられた。

苦しいほどの圧迫感。痛いほどの悲しみと絶望。

思わず落としたペンを拾う間もなく、この時間には有り得ないはずの物音を耳朶が捉えた。


「……イルです。入っても、いいですか?」


ノックの音。全ての、無機物だけではない、人や動物も動きを止めるこの時間に、あの寮からも離れている桐条の元へ、その音が届くはずなどなかった。それなのに。

次いだ声に戸惑いながら、それでも桐条は扉を開け、来訪者を室内へと招き入れる。


「……すみません、こんな時間に」


申し訳なさそうに伏せられた眼差し。桐条がここにいることは、どうやら真田経由で聞いたらしい。そう告げた来訪者である白い少女、イルに、いつもならこんな時間まで外出していることを咎める桐条も、今ばかりはその余裕すら持てずにいた。

何を、どう紡げばいいか、わからない。

唐突な訪問だからということも、こんな時間だからということももちろんある。けれどそれより今は。

……私生活を彷彿させる行動を、取りたくはなかった。


「そう、だな。確かに驚いた」


選んだのは何とも微妙な言葉。他にもっと現状に妥当なものがあろうに、それすら考えが及ばない。イル同様視線を落とす桐条は、落ち着かない感情を押し隠すことに手一杯だった。

そんな彼女に、イルの方が言葉を続ける。元より、時間はどうあれ、用があって訪れてきたのは彼女の方だ、それも当然か。


「忙しいとは聞いていました。けど、話さずに逃げたくはなくて……。あたし、本当は気付いていたんです。終わりじゃないかもしれない、可能性。それは十二体目の大型シャドウを倒したあの時、確信に変わりました」


理由は、語らない。けれど彼女は続ける。わかっていて、それなのに逃げてしまったのだ、と。

確かにあの日、一日中彼女と連絡を取ることは叶わなかった。それを彼女が意図してそうしていたのだと言うのなら、理解はいくだろう。

けど。けれど、それなら。

知っていたなら、予測していたなら、それを伝えて欲しかった。それを教えてもらっていたなら、あるいはあの夜の出来事も回避できたかもしれないのに。

弱くなった心は、縋る先を求めて簡単に憎しみに飛びつける。恨む先を見失った今なら、なおのこと。……それがたとえ、大事な友だと、妹のようだと思っていた、彼女相手であったとしても。



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