しましま少年
「あ、おはよー、梓董くん。丁度良かった!」
起床して支度を終えて階下へと降りてくれば、丁度これから登校しようと玄関に手をかけていたイルと鉢合わせた。もれだす欠伸を噛み殺しながら小さく挨拶を返す梓董に、彼女は屈託のない快活な笑みを浮かべて駆け寄ってくる。
「あのね、ちょっとお願いがあるんだけど」
「……何?」
「今夜、部屋にお邪魔させてもらっても、いい?」
爆弾発言第二弾、投下完了。
《5/02 しましま少年》
とりあえずまずは断ってみたが、結局強い懇願を受け、対応が面倒になった梓董が折れるという形で今に至る。
すなわち、ここ梓董の部屋に今、イルの姿があるわけだ。
もちろん……特に同級生組に……知られると面倒なので、なるべく密かにここまでやって来たわけで。したがって、できうる限り物音は立てないように気を付けることは両者の内の暗黙の了解となっていた。面倒事など極力避けるに限る。その辺りはイルも承知しているようだ。
「……で、何でわざわざこんな時間に?」
伊織じゃあるまいし、何をするということもないが、夜中に恋人でも身内でもない異性の部屋に潜り込もうなどとあまり常識的には思えない。梓董が気にしなくとも、誰かに気付かれれば必要以上に騒がれるだろうことは目に見えているようなものだ。
「ああ、うん、ごめんね。迷惑かけて。でも、きっと今日だから」
それは彼女にしてみれば答えになっている言葉なのだろうが、梓董にしてみたら全く意味がわからないもので。何のことかと訝しめば、彼女が先程から時計ばかりを気にしていることに気が付いた。
つられるように現時刻を確認してみると、今はもう少しで午前零時……つまりは影時間になるという時刻。それが何を示すかまではわからず、とりあえず再びイルへと視線を向け直せば、彼女はどこか落ち着かなそうにそわそわそわそわとしはじめていた。
最近どこかでそれと似た様子を見かけたような気がして思い返せば、確か梓董と同じ剣道部に所属する同級生、宮本に会う直前にみせたものが似た姿だったと思い至る。が、あの時はどちらかと言えば何かを警戒するような、そんな風に思える雰囲気だったのだが、今はあの時とは対照的に純粋に楽しそうな、嬉しそうな様子に見えた。
待ち遠しく、思っているような感じにも思える。
まあ真実そうだとしても、梓董には彼女がそんな様子を見せるその心当たりはないのだが。
「あ、そうだ。あのね、梓董くん」
そわそわと何度も時計を確認していたイルが、ふと思い出したように梓董へと顔を向ける。何かと視線で問えば、彼女は少しばかり躊躇った様子を見せ。どこか言いにくそうにゆっくりと切り出した。
「あの、ね。その、名前……なんだけど」
「……名前?」
「……うん」
言いながら、なおも言い淀むその姿は、何となく彼女らしくないように思え。らしいも何も、まださほど彼女を知っているわけでもないのに何を考えているのだかと、内心で自分に息を吐く。
その間にイルは意を決したらしく、ぎゅっと表情を引き結ぶと、真剣な眼差しで梓董を見つめた。
「な、名前。戒凪って、呼んでもいい?」
心なしか頬が赤い気がするのは、きっと彼女にしてみたら相当勇気を振り絞らなければできない発言だったからなのだろうが。
正直、梓董にしてみれば拍子抜けだ。
あれほど真剣な雰囲気を醸し出しておいて、言いたいことがそれだとは。もっと何か重要な話でもされるのかと思った分、思わず小さく呆れてしまう。まあ特段身構えたりしたわけではなかったが。
とりあえず梓董は、緊張した面持ちのまま見つめてくるイルに軽く頷いて答えた。
「……まあ、ご自由に」
「本当!? ありがとう」
梓董の返事を聞くなり、ほっと安堵した様子で息を吐き嬉しそうに微笑むイル。たかが呼び方一つに大袈裟な、と思いつつも、心から嬉しそうに、しかもどこか幸せそうにすら見える笑みでイルが笑うものだから、思わず小さく吹き出してしまった。
「……イルって、変」
「へ!? え、変!? どこが?」
「……さあ。何となく」
「何となく!?」
問い返しながら自分の体を見下ろしてみたり、自分の顔をぺたぺたと触ってみたりしているものだから、やっぱり変だと思ってしまう。
でもそれは不快な感覚ではなかった。
見た目じゃないよとあえて教えないのは、面倒だからではなく、面白いからだということは心の内にしまっておく。
そうこうしている内に。ふっ、と、部屋の照明が全て消え、辺りに闇が落ちた。
影時間が訪れたようだ。
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