別れ、託す
「……発つ前に会えてよかった」
呟くように。少しの寂しさを滲ませた声音は、けれど清々しさも宿して。
梓董へと、静かに告げられるのだった。
《10/15 別れ、託す》
二学期中間試験が幕を開け三日。帰り際に立ち寄った巖戸台に相変わらず早瀬の姿があったのだが、どうにもその様子はいつもと違うように思え。話を聞けば、彼はぽつりぽつりと語り出す。
以前話していた奨学金のかかった試合で優勝したこと。けれど家族を守るために、進学するよりも就職を選ぶことにしたこと。死んだ父親のあてで車のメーカーに勤められることに決まったが、それが少し遠い場所にあること。そのための準備や挨拶回りはもう済ませ、明日にはそちらに向かうのだということ。
驚くほど全てが急で、めまぐるしく日々を送ってきたらしい早瀬は、けれど自分自身の中ではきちんと整理がついていたらしい。最後にどうしても梓董に会いたくてここで待っていたと告げた彼は、寂しさを浮かべながらもやはり清々しさも感じる笑みを浮かべていた。
事前に連絡をしてこなかった理由は、そうせずとも会える気がしていたかららしい。それが、何となく彼らしく思えた。
「梓董に会ってから色々わかった。自分がずっと学校や家族のせいにして、自分と向き合うことから逃げていたことに」
語る彼は達観して見え、全てに納得し、受け入れているように見える。梓董自身、彼のために何かをしてやれた覚えはなく、会話の中で何かを得られたというのなら、それはきっと早瀬自身の力でなのだろう。向き合う気持ちを持てたというなら、それは早瀬が元々自分自身で持ち得ていた力なのだ。
「お袋には“私のせいで”って泣かれたけど……俺は家族を支えたいんだ」
大好きな剣道を諦めたわけじゃない。ただ、それよりも大切なものが見つかったという、それだけの話。
あれだけ剣道にかけていたのだ。未練がないとは言い切れないだろうが、けれどまっすぐに前を見据える彼の眼差しからは、迷いも躊躇いも感じられなかった。後悔は、していないのだ、きっと。
「ただ……一つだけ、心残りがある」
今までひたすらにまっすぐだった早瀬の表情が、ここにきて途端に曇る。いつものベンチに腰をかけたまま俯いた彼の両手は、膝の上で固く強く結ばれていた。
「……琉乃の、ことだ」
それは想像に難くなかったこと。
きっと誰より早瀬を支え、この選択すらも応援し後押ししたのだろう少女の姿が脳裏をよぎる。早瀬のために何かをしたくて、何ができるのか必死に考えた彼女は、きっと伸ばされた彼の手をしっかりと掴むことができたのだろう。誰よりも早瀬を想い、支え続けたその少女は、今、何を思っているのだろうか。
「なあ、梓董。この前言っていた、あいつの姉の話なんだが……お前に、任せようと思う。お前が話すべきだと思ったその時は、あいつに、話してやってくれ」
梓董ならきっと、入峰を傷付けるような選択をしないから。責任を押し付けるようで申し訳ないと続けた早瀬は、それでも梓董だからこそ任せられるのだと続けた。
「……琉乃の奴、お前には懐いているみたいだからな」
小さく笑って告げる早瀬は、今度こそ寂しそうで。それがどういう意味を持つかは梓董にはわからなかったが、もしかしたら兄離れをする妹を送り出す心境というものなのかもしれないと、小さく思った。真意は、わからないけれど。
「琉乃のこと、時々でいいんだ。気にかけてやってくれ。……あいつ、本当はとても泣き虫だからな」
顔を上げ、空を見上げた早瀬の想いは今、きっとあの少女へと向けられているのだろう。泣き虫だから、と呟く声は、ただひたすらに彼女を案じ揺れていた。
「……わかった」
「……ありがとう」
以前の梓董ならば、もしかしたら請け負わなかった話かもしれない。いや、請け負ったとしてそれはただの惰性でしかなく、興味自体は全く抱かなかっただろう。
けれど今は。
今は、繋がり、というものを大切にしたいと思うから。
イルに似ているから、というその理由だけではなく、紡いできた糸を、解かずに大事にしていこうと思うのだ。
そんな思いで頷く梓董に早瀬は小さく安堵の息を吐き、そしてふと思い出した様子でポケットを漁り始める。少しして再び外に出されたその手には、一つの鍵が握られていた。それをそのまま差し出され、梓董は小さく首を傾げる。
「なあ、梓董。これを受け取ってくれ。このキーは、親父の車のだ。ずっと、俺のお守りにしていた」
早くに亡くなった父を責めたことも詰ったこともあった。全てを父のせいにして、そうしてその鍵を父に見立て、自分の逃げ場にしていたのだと、早瀬は語る。
「これを、お前に持ってて欲しい。俺が持ってると、すがりたくなるかもしれない。だが、お前が持っててくれると思えば、俺は頑張れる気がする。お前に顔向けできるように、ってな」
ありがとう、梓董。
笑う早瀬にはもう、未練はなかった。彼の心残りは、彼自身が口にした通り、入峰のことただ一つだったのだろう。それを梓董に託すことで少しは踏ん切りがついたのか、先程までの寂しさも消し去った笑みは彼の先行きを表すかのように、明るい。
差し出されたままの鍵を静かに受け取れば、彼はその場で立ち上がり、改めて梓董へと手を差し出した。その手を取り、梓董もゆっくりと立ち上がる。
「ありがとう、梓董。俺も……きっと琉乃も、お前に会えて良かったと思ってる。いつかまた、会おう。……琉乃のこと、頼むな」
離れる手。離れる温もり。去り行く背。
別れは、けれど終わりではないと。
手の中に残された車のキーが、語っていた。
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