ただ前を、



「こんばんは」


ふわりと舞い降りる、というよりも、すうっと闇の中から溶け出す感覚。自分では特に何を思うでもないいつもと変わらぬ登場の仕方でやってきたのは、欠け始めた月が照らす、彼らの住まう寮の屋上だった。







《10/06 ただ前を、》







事情というか状況というか……そういったものは、既に彼から聞いている。同時に、その話の中心人物に、今目の前にいる少女がとても懐いていたことも。

人の感情というものは複雑で、ファルロスにとっては度々理解に難くなることがある。それでも彼や、ここにいる白い少女との会話ややりとりで、少しはそこに近付くことができてきたと思っていた。

だからこそこういう時、人は酷く落ち込み、悲しみ、苦しむのだろうと、そう思っていたのだが。


「こんばんは、ファルロス」


向き合う彼女はどこまでも優しく微笑を浮かべ。いつもと同じく柔らかにファルロスを迎えたものだから、思わず拍子抜けしてしまった。

もちろん、彼がこんなことで嘘を吐くはずがないのだから、彼女の態度の方が意外なものであるという他ない。だからこそ軽く目を瞬かせ、ついストレートに問いかけてしまった。


「あれ。イル、落ち込んでると思ったのに」
「落ち込んで、って、もしかして、戒凪に聞いた?」
「うん」
「そっか」


聞いてはいけない話だった、というわけではないようで、あっさり頷いたファルロスにイルは小さく苦笑するだけ。そのままくるりと身を翻し、彼女はファルロスに背を向けたまま月を仰いだ。つられるようにファルロスも顔を上げれば、そこにあるのは予想通りいつもと変わらぬ金色の月。降ってきそうなほど大きく近く見えるそれに、ファルロスは僅か目を細めた。


「落ち込んでないって言い切っちゃうとね、嘘になる。でも、今は強がってでも顔を上げないと」


紡ぐ声音は、いつもの彼女らしい凛としたもの。どんな表情を浮かべて紡いでいたかは生憎わからなかったが、言い終えた彼女は肩越しに振り向き、それから改めて続けた。


「強くなるって、改めて決めたんだ。荒垣先輩が起きたら、笑って出迎えるの。で、コーヒー淹れてもらわなきゃ」
「コーヒー?」
「約束、したんだ」


ふふ。小さく笑うその表情は、いつもよりも少し切なくて、儚くて。でも言葉だけはやっぱり強く紡がれていたから。

ファルロスは、ただ「そっか」とだけ返して小さく笑った。

その笑みに少しだけ口元の弧を深めたイルは、もう一度だけ月を見上げて振り返る。肩口まで伸びた銀の髪が、ふわり、揺れた。


「それにね、あたし、後悔はしてないんだ。この路を選んだことを。この路を、歩んでいることを。だからあたしにできることは……前を向くことだと思う」


悔しくないわけじゃない、苦しくないわけじゃない。ああすれば良かった、こうすることができたはず。

そういう思いは、人なら誰しもが抱えている葛藤だろうし、それが悪いことだとはファルロスは思わない。イルがそれを抱えていないとも、今本当に感じていないとも思えなかったが、多分彼女が言いたいことはそこにはないのだろう。

選んだ路を、歩いている路を、彼女はとても大切にしていて、彼女の芯とも言えるその路を貫くことに揺るぎたくないだけなのだ、きっと。

悔いることは恥ずべきことではない。それはそこから何かを得て活かすことができるなら尚の事。けれど彼女はそれでも振り返らないのだろう。彼女の言うように、それが例え強がりだとしても。

誇り、に似ているかもしれない。彼女の眼差しに宿る、この光は。

そんなことを思いながら、ファルロスはただ優しく目を細める。


「そっか。イルの決めた路、それが何かはわからないけど、僕も応援してるよ」
「ありがと。心強い味方だ」
「ふふっ。そう言ってもらえると、僕も嬉しい。じゃあ、また会いに来るね。元気で、イル」
「うん、ファルロスも。……またね」


大丈夫。彼女なら、きっと。

そう思わずにはいられない柔らかな笑みで見送られながら、ファルロスはゆっくりと闇に溶けていった。








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