懐中時計



「あたしは、真田先輩のためには生きられない。そういう路を、選んだんです」


よぎるのは梓董の姿。わかっていた、彼女が誰より優先し、また誰より大切に想っている相手が彼であることくらいは。

けれど、一番でなくとも良いのだ。例えばこの先、真田に大切だと想える相手ができたその時には、その相手にこそ真田を任せるべきであるし、イルを束縛しようとしての言葉では決してない。ただ……。

ただ、きっとそう遠くはない未来に訪れるだろうその時に、彼がひとりにならないよう、傍にいて欲しいと願うのだ。彼はとても優しくて……その分、脆いところがあると、知っているから。


「……荒垣先輩、ダメですよ」


小さな、声。けれど他に人影もない静まり返った境内では、驚くほど耳に響きしっかりと留まる確かなことば。

悲しげに深みを増したアオが、ただまっすぐに見上げてくる。


「何を考えているのか、あたしにはわかりません。でも……ダメです、絶対に」


理解ではなく、何かを察してなのだろう。明確に何がダメだと言葉にすることはできない様子のイルは、どこかもどかしそうに、けれど強く強く訴えかけてくる。

そうして続く、言の葉は。


「真田先輩にはあたしだけじゃなくて、みんながついてます。支えになってくれる人は、たくさんいますよ。……それに、真田先輩のことを誰よりわかってあげられて、誰より心配してあげられるのって、荒垣先輩以外にはいませんもん。真田先輩が一人立ちするまで、荒垣先輩が見守ってあげないと」


そう言って小さく笑うイルは、どこまでも優しくて。……それができなくなる日が来るなどと、決して認めてはくれなそうだった。

何て、返せばいいんだろう。わかっていないはずなのに、どことなく悟ってしまった様子の彼女に。何を言えば、置いていくことができるのか。振り向かないで済むようになるのか。

悩んでいる間に、目の前の少女の笑みが変わる。へらりと笑うその笑みは、いつの間にか見慣れてしまっていたものだった。


「それと、今荒垣先輩言ったじゃないですか。あたしのこと、手がかかるって。言っちゃったことには責任持って手をかけてもらわないと! あたし、まだまだ荒垣先輩に聞きたいこととかいっぱいありますしね!」
「……何だそりゃ」


もれる苦笑。どんな言い分だと、呆れながらも彼女らしいと小さく思う。同時に思うのは、参ったな、という感情。置いていくつもりが、振り向かないつもりが、そうできない理由を一つ、増やされてしまった。

未練は、残したらいけなかったのに。

もう少し生きたい、なんて、願えるような立場ではないのに。

この世界はどうにも、暖かすぎるようだった。


「なあ、イル。お前本当は何て名前なんだ?」
「え?」


イル、が本名ではないことくらい、もちろん荒垣も知っている。ただそれで今までずっと通ってきていたようだったし、改めて自分がつっこむのも妙な気がして特に何も言ってこなかっただけ。だけど。

だけど今はその名を、彼女を示す、その名前を……知りたい、と、そう思ったのだ。

何故かと問われると明確な理由など思い付かないが、それでもそれを知ることで、未練が一つ消えるような気さえする。


「……それは……」


言い淀む、言葉。惑う視線に、それが彼女にとって答えにくい問いなのだと知らせる。まあ、あっさり答えられるくらいなら、最初から本名を名乗っているだろうが。

言えない、だろうか、その答えは。そんな予測を立てる中、彼女は再びまっすぐに荒垣を見上げた。


「今は言えませんけど、ちゃんと話せる時に話します。だから……それまで、待ってくれませんか?」


言えないなら言えないで構わなかったのに。そんな言い方をされてしまうと、困ってしまう。

未練を一つ消すつもりが、一つ増やされてしまうなんて。

望んではいけない責任があるのに、望んでしまう理由があるなんて、なんという矛盾。これでは駄目だとわかっているのに、願ってしまう愚かさが、苦しかった。

やはりここは、暖かすぎたのだ。手放したくなど、ないほどに。


「……悪かった。その、何だ……今日のことは気にすんな。……帰るぞ」
「え!? あ、ちょ、荒垣先輩!?」


狡いとはわかっている。答えらしい答えを返せないのは、これ以上の約束を残したくはなかったから。

悪あがきかもしれない。けれどそれでも……。

許さなくていい、許されなくていいのだ。だからせめて傷付かないで欲しい、なんて、傲慢だろうか。

呼ぶ声に答えられないまま歩く夜道を、僅か欠けた月が静かに照らしていた。








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