自覚、始まり
たとえば、触れた手の、体温の少し低い温もりだとか。
たとえば、屈託なく笑うその笑顔だとか。
見返りも求めない、同情からでもないまっすぐな心配や好意を受けることに慣れていなくて、戸惑い困惑もしたけれど、だけど胸の奥の方がじんわりと暖かくなってゆくような、そんな感覚も覚え。一度芽吹いたら広がることしか知らないようなそれは、白いキャンパスに鮮やかに色を落として広げ続けた。
ふわふわと暖かいような、それでいて泣きたくなるような、胸の奥が締め付けられるようなそんな切なさ。この感情の名前を知る術もなく、今までずっと、ただただたゆたわせ、燻らせ続けてきた。
目を逸らしたまま耳を閉ざしたままでいられるなら、そのままで良かったのかもしれない。
どうでもいい、は、他人に興味のない証。けれどそれと同時に、一線を引くことで他人と自分を乖離し自分のせかいを守る術でもあるのだと、いつからか気付いていた。
その線を、自ら踏み越えたいだなんて思う日が来るなんて。そんなこと、思いもせずに生きてきたのに。
広がる想いは、留まらなかった。
《09/20 自覚、始まり》
頭が重い。体も酷くだるい気がするし、やけに喉も渇く。
そういえば、台風の影響で降り始めた雨に打たれ、濡れそぼって帰ってきた日からあまり調子が良くなかった。
……ああ、風邪を引いたか。
健康優良児だと胸を張れるかはわからないが、最後に風邪を引いた記憶はもう大分遠い。うまく働かない思考で、けれどぼんやりと自分の状態を認識してゆく。
ついでに状況の認識もしようかと記憶を探るが、あいにく雨に打たれた日に倒れ込むようにしてベッドに沈んだ後の記憶が全くない。おそらく、感覚からしてベッドにいるのだろうが、あの時からずっとベッドに沈んだままだったということだろうか。
と、頭の回転が鈍い中でゆっくりとそこまで考えたところで、ようやくそれに気付いた。
手が、何か……いや、誰かに握られている、と。
そうして真っ先に思い至ったその姿。証拠もないのに確信じみた思いを抱かせるその姿に、自然とその名が口から零れ出した。
「……イル?」
喉が渇いているせいか、引きつるような掠れた声がそこからもれる。痛みはさほどないせいか、喋ること自体はそれほど苦にはならないようだ。
「戒凪っ!?」
すぐさま返ってきた、不安と焦燥を織り交ぜた声。少し頭を動かせば、やはりそこに白いその姿を見ることができた。
熱のせいか、部屋が薄暗いせいか、視界も僅かぼんやりしている。
「だいじょうぶ!? どこか痛いとか苦しいとかは!? ああええっと、とにかく水、水飲む!?」
「……だいじょうぶ。そんなにあわてなくても」
見事な焦りようが少しおかしくて小さく笑う。ベッドの傍に座り込んでいたのだろう彼女が慌てて動き出そうとしたのを、繋がっていた手に僅か力を込めることで制止した。
やっぱり、この手の持ち主はイルだったのだ。
そう思うとどこかで確信していたはずなのに、何だかふわりと嬉しくなる。
「……おれ、さ」
「え?」
「たにんの、かんじょうとか、おもいとか、よくわからなかったんだ」
ぽつりぽつり。熱のせいだろうか、抑止する何かが働かなくなったかのように漏れ出す言葉は溢れ出し、それをゆっくりと掠れたままの声で紡いでいく梓董に、イルは僅か戸惑った素振りをみせたが、すぐに再び腰を落ち着け聞く体勢を整えてくれた。
「べつに、ふこうだったわけじゃない。おやがじこでしんでから、しんせきのいえとかてんてんとしてきたけど、ふじゆうはしてこなかった」
厄介者扱いも受けなかったし、いじめられたりとかもしなかった。梓董からすれば過剰すぎるくらいの同情を受けた程度で、不満なんて更々ない。むしろ育ててもらったことには感謝もしている。
けれど。
「……さみしかった、のかもしれない。しんせきっていっても、けっきょくはほんとうのこどもじゃないし、どうしたっていっせんひかれてたから」
それは生活上での些細な接し方だったり、言葉の選び方だったり。見えないその線を感じる度に、どうしたらいいのかわからなくなっていった。
我儘は言えない。迷惑はかけられない。だから勉強だって運動だってそれなりにやってきたけど、時々無性に空虚な気持ちになったのだ。
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