変えられるもの、変えられないもの



今宵の月も青白く。全ての音も消えた今、そう、いつもの逢瀬の時間が始まった。


「こんばんは、イル」


見慣れた場所、いつもの白いシルエット。ファルロスは月を見上げるその後ろ姿に、小さく笑みを浮かべるのだった。







《09/12 変えられるもの、変えられないもの》







前回の話題は少し重くなっていたが、今宵邂逅したイルは、いつもの柔らかな微笑でファルロスを出迎えてくれる。そんな彼女に促され、やはり向かうのは寮の屋上の縁。そこに並んで腰をかけ、揃って足を宙に投げ出した。


「どう? 元気だった?」
「うん。それが取り柄みたいなものだしね」
「あはは。イルが元気だと、僕も嬉しいよ」


何でもないような会話。けれどそれがどこか嬉しくて楽しいなんて、不思議だとファルロスは思う。同時に、イルも自分との時間をそう感じてくれていたらいいのにと、少しだけ願った。


「今日も戒凪のとこに行ってきたんでしょ?」
「うん。最近僕はあの塔のことばかり考えてる。いろいろね、見え始めた気がするんだ」
「……終わりのこと?」
「……そうだね」


やがて訪れるもの、避けられないもの。それを思うと何故だか胸の奥の辺りが少しだけ重くなる。それを望む人もいるようだけれど……彼も、ここにいる彼女もきっと、それを望んではいないだろうと思うと、胸がぎゅっと締め付けられるような気がしてくるのだ。


「そう言えば、イルは変えられない決まりって、あると思う?」
「……変えられない、決まり?」


ぴくり。少しだけ、イルの肩が跳ねたような気がして、僅かばかり訝しむ。けれどきょとりとアオイ目を瞬かせてこちらを見ているその表情には特段変わった様子はなかったから、気のせいだろうかと話を続けることにした。


「そう。今日はね、それを彼に訊いてみたんだ。そしたらいつもみたいにどうでもいいって返ってくるかと思ったんだけど、今日は違って」
「戒凪、何て言ったの?」
「え?」


ファルロスにしてみれば、珍しい彼の反応に少し気持ちが高揚するような、面白いものを見せてもらったような、そんな気分だったのだが。てっきり楽しそうに食い付いてくると思っていたイルの反応が、酷く必死で……何かを焦っているようにすら見えたため、戸惑う。また何か彼女の地雷を踏んでしまったのだろうか。


「彼なら、変えられるものもあるんじゃないか、って言ってたけど」
「…………」


悲哀。……いや違う、これは……辛苦か。苦しそうに表情を歪ませた彼女は絞り出すような声で、ただただ小さく「そう」とだけ紡ぎ出し、黙り込んだ。膝の上に置いた両手が、スカートの裾を強く握りしめ、微かに震えている。

……一体、何がいけなかったのか。

さっぱりわからず、ファルロスはただただ困惑するばかり。


「ねえ、イル」
「……変えられないもの」
「え?」


何と声をかけたらいいかはわからなかったが、それでも放ってはおけなくて、心配を声音に宿してただ彼女の名を紡げば、彼女の口からぽつり、言葉が滑り落ちる。視線は、手元に落とされたままだった。


「変えられないものを、変えられないものとするのは、諦めなのかな。……諦めなければ何でも変えられるなんて、そんなの物語の中の話だけ。本当に変えられるのなら……誰も、悲しんだりなんかしないんだ」
「イル……」


彼は変えられるものもあるだろうと言っただけで、一概に全てを変えられると言ったわけではない。それは彼女もきっと理解しているはずだが、それでも吐露せずにはいられなかったのだろう。抱えている何かに、耐えるためには。


「あ、ごめん。戒凪、全部を変えられるって言ったわけでもないのに、あたし……」
「ねえ、イル。思うんだけど、変えられないものを変えられないって思うことが諦めなんじゃなくて、変えられないものの中で変えられないからって何もしないのが諦めなんじゃないかな」
「……ファルロス」


ぎゅっと、唐突に強く柔らかくくるまれ、一瞬何が起きたか理解が追い付かなかった。一拍してイルに抱きしめられたのだと思い至ったその時には、すぐ耳元で「ありがとう」と小さく囁かれる。その声は、微かに震えていた。


「あたし、いっつもファルロスに救われてる。……ありがとう、ファルロス」
「イル……」


抱きしめてくる腕の強さに応えるように、彼女の背に手を回す。柔らかく包んでくるその腕の中は、とてもとても、あたたかかった。


「ねえ、イル。……何があっても、僕たちは友達でいられるかな?」


変わらないものと、変わるもの。この関係は果たしてどちらに分類されるのか。

……変わらないで欲しい。そう確かに願うのに、変わって欲しい気もするのは何故だろう。




「だいじょうぶ。何があってもあたしはキミの味方だから。……何があっても、あたしはキミが、だいすきだから」




だいすき。その言葉は、驚くほど素早く体中に温もりを満たし、広げてゆく。泣きたいほどに嬉しいこの想いはきっと「いとおしい」という名なのだろうと、抱きしめられる腕の中で感じた。

この関係がいつか変わってしまおうと、もしも変わらないものであろうと、きっとだいじょうぶ。そう、だいじょうぶ、だ。

そんな風に思わせてくれる強さが、温もりが、彼女の言葉に宿っていた。


「うん。僕も……イルのこと、だいすきだよ。ずっと……ずっと、ね」


もう時間だ。この時間が永遠に終わらなければいいのに、なんて、名残惜しさから無茶なことすら願ってしまう。彼女から身を離した時に通った微かな風はきっと、寂しさ、なのだと思った。


「また、会いに来るから」
「うん、待ってる」


繋いだ手を離しながら。離れない確かなものがあればいいと、強く願った。








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