柿の木の行く末
「……イル、貰おう」
ぽつりと小さく、けれどはっきりと紡ぐ梓董を、イルは未だ躊躇いを乗せた瞳を揺らしつつ見上げる。そのアオイ瞳を真っ直ぐ見据えれば、僅かの後彼女はゆっくりと頷いた。
「うん。……じゃあ、これは戒凪が持ってて」
「は?」
予期せぬ展開。イルから受けた思わぬ言葉に、梓董は思わず目を瞬かせて問い返してしまう。
老夫婦が喜んでくれた署名の活動はイルが率先して行ったもので、だからこそその柿の実は彼女の方こそ貰うに値するはずなのに。その考えをそのままイルに投げかければ、彼女はどこか照れたようにはにかんで、それを隠すかのように頭を掻いた。
「でもほら、きっかけは何であれ、あの署名は戒凪と二人で集めたものだし。……まあ他にもいろんなひとに手伝ってはもらったんだけど……。それはともかく、あたしはいつだって戒凪の傍にいるから」
梓董が持っていてくれるということは、自分が持っているのとも同じ、なんて。
まるで告白じみた言葉を平然と放つから質が悪い。
ともすれば重い、と捉えられそうなそれを、しかし梓董は溜息一つに変えるに留め何を言うこともなかった。
それは決して彼女の言葉を肯定したわけではないけれど……えいえん、なんて不確かだから。けれどそれでも彼女が言うならそれでいいか、と。諦めと、その中に形のわからない何かの感情を覚えながら、その感情の正体を確かめることはせずに梓董はイルの言葉に了解を示す。
「……わかった。じゃあ俺が預かる」
告げながら光子から柿の実を受け取れば、老夫婦はいつものやんわりと優しい微笑を浮かべて梓董を見つめた。ありがとう、と、光子に小さく呟かれ、少しむずがゆいような気持ちになる。
イルではないが、祖父母がいたならこんな感じなのだろうか。
くすぐったいような暖かいようなそんな感覚に、慣れていないせいで反応の仕方がわからない。それを少しだけもどかしく感じていると、光子の隣で文吉の笑みがにやりと変わったことに気が付いた。
「にしても、じゃ。やっぱりイルちゃんと戒凪ちゃんはらぶらぶじゃのう。ワシと婆さんの若い頃のようじゃ」
で、どこまで進んでいるのか、と。以前にも訊かれたような話題に移り変わり、それを微笑ましく光子が見つめる中、今回もまたさりげなくイルが話題を変える。何だかどこかで見た光景だ、なんて遠く思う梓董の手には、しっかりと青い柿の実が握られていた。
「ふーん。そんなことがあったんだ」
月夜の下、寮の屋上で再び交わされる邂逅。青い少年は傍らに座る白い少女の話を興味深げに聞きながら、一人頷く。
今日あった出来事をまるでその場に自分もいたかのように思えるほど鮮明に話してくれる彼女の話は、ファルロスにとって未知のものであると同時に興味を引かれるものでもあった。いや、未知のものだからこそ、だろうか。
とにかくイルの話し方がうまいということもあってか、聞いていて飽きることのないそれに時間を忘れてしまっていたため、いつの間にやら既に影時間の終わりが近付いてきていたことに、今更になってようやく気付く。
「あ、僕もう行かないと」
「ああ、もうそんな時間だったんだ」
「ね。イルと一緒だと時間が経つのって早いなって思うよ。……もっと一緒にいれたらいいのに」
変えようのないタイムリミットに対する紛うことない本音をぽつり、少しばかり拗ねたように漏らせば。イルは優しく笑いかけながらファルロスの頭を柔らかく撫でてくれた。
その手の温もりに顔を上げれば、緩く笑みに細められたアオと視線が交わる。
「だいじょうぶだよ。もっとたくさん話せる日がくるから。その時は色々なところに連れて行くからね」
おじいちゃん達のところにも。
それはとても甘美な誘いで……けれど何故か夢物語のようにも思えなくて。
いつか、は、きっと訪れると。
そう思わせる何かが、彼女のその言葉に、その眼差しに、宿っているような気がした。
「……うん。楽しみにしてるね」
浮かぶ笑みに比例するように高まる鼓動。これは期待、なのだろうか。
あたしも楽しみだ、なんて笑うイルに、何だかどことなく嬉しくなる。心がふわりと暖かくなって、ふふ、と小さく笑みを刻みながら、ファルロスはゆっくりと歩きはじめイルへと振り向いた。
その背では僅かだけ欠けたまるい月が煌々と輝き、まるでファルロスを飲み込まんとしているかのように錯覚させる。
「約束、だから。……またね、イル」
またね。
早くそのまたが訪れないかと、今から待ち遠しく思いながら、小さなこの手を白い少女へと振って笑った。
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