村を覆う異質な空気に、母の霊力が溶け出してしまったようだ。
それにしても、あの穴、劣化のような自然現象からじゃなくて人為的に無理矢理開けられたもののように見えたけど……。
樹月に訊いたら、樹月達がこの家に来た時には既に開いていたらしく、樹月も不思議には思ったけど何故開いていたかまではわからないとのこと。
……父が複雑そうな表情を浮かべていたから、あまり長くは触れないことにした。
とにかく、廊下に面した襖のひとつ、その奥が父の言う寝室らしい。
父が言うには兄の部屋は別にあって、ここは父と母と……そして幼かった私が寝ていた部屋だとのこと。
そう聞いて、ぐるりと一度中を見渡して記憶を手繰ってみたけれど……。
「……ごめんなさい。私……」
わからない……わからなかった。
懐かしさもうまく感じ取れないことが悲しくて、申し訳なくて……。
俯いて謝る私の頭を、父は優しく撫でてくれた。
兄の撫で方によく似た、兄と同じ大きな手。
その温度だけは冷たいけれど、でも、心の奥から凄く暖かい何かが込み上げてくる。
「そんな顔をするな。わからなくとも知ることはできる。ここは確かにお前の家なのだからな」
「……うんっ」
見上げた先で優しく微笑んでくれている父が、凄く凄く恋しい。
それは樹月に対する想いとは違う、兄に対するものと似た感覚。
そう思ったら、やっぱり家族なんだって強く思えた気がして、少しくすぐったくて酷く嬉しくなった。
「お父さん、私……お父さんとお母さんのことや、私の覚えていない私自身のことや兄さんのこと、知りたい」
「ああ、いくらでも話そう。私も、お前や弥生のことが知りたい」
お父さん、お父さん、お父さん。
何度呼んでも呼び足りないくらい、色々な想いが後から後からこみ上げてくる。
私にはこんなにも素敵な父がいたんだということが、本当に本当に嬉しかった。
「お前の母睡蓮は優しくも気丈な女でな。いつも真っ直ぐに前を向いて、凛としていた」
怖じることなく媚びることなく、どこまでも真っ直ぐだったという母のその姿勢は、何だか兄とよく似ている。
見た目は今の私と瓜二つらしい。
綺麗になったと誉めてくれる父の優しい目が照れくさくて。
それに樹月が同意をするものだから、この上なく気恥ずかしかった。
父が語るには、どうやら父の方が先に母を見初めたとのことで。
父は村のひとたちに秘密で母の元に通いつめたらしい。
結婚も父が村人を説き伏せて成したとのこと。
「……格好良いね、お父さん。僕も見習わないと」
「そうでもない。茨羅を強く想ってくれている君にこそ、私は感謝が絶えぬくらいだ」
「いえ、そんな……」
私に微笑みかけながら紡がれた樹月の言葉に、父が柔らかくそう返す。
照れたように頭に手をやりはにかむ樹月に、何だか嬉しくなって自然と私の頬が緩んだ。
本当に……嬉しい。
こんな風に、父と樹月が認め合ってくれていることが。
私の大切な二人が、こうして一緒にいてくれていることが。
嬉しくて、仕方がない。
「弥生はそれはもう活発な子で、家の中や周りを毎日毎日所狭しと駆け回っていた」
あ、何だか凄く想像がつく気がする。
「茨羅が生まれてからは妹ができてよほど嬉しかったのか、自分が茨羅の面倒をみるときかず、何をするにも連れ回すものだから目が離せなかったくらいだ」
「……弥生らしい」
同じことを思ったようで、樹月が小さくそう呟く。
見上げればどこか優しさを感じる苦笑を浮かべる樹月と目が合って、そうだね、と私も笑みを返した。
ちなみにその様子をハラハラしながら見ていたのは父だけで、母は多少無茶した方が丈夫に育つと笑っていたらしい。
豪快、でもあったのかな。
「そのせいか、茨羅も弥生によく懐いていてな。ようやく歩けるようになった頃には、自分から弥生の後をついて回っていたくらいだ」
そ、そうなんだ……。
記憶にない頃の自分の話って、何だか少し恥ずかしいな……。
「懐かしいね。村に来たばかりの頃の茨羅も、弥生にべったりだったよ」
「え、そうだっけ?」
「うん」
皆神村についたばかりの頃の記憶も私には薄いけど、樹月は私より年上だからか覚えてくれていたみたい。
重なる過去に、心なしか父が嬉しそうに見えた。
父から聞きたいことや話したいことはたくさんあって。
本当に、時間が足りないほど。
だからこそ暗い話や悲しい話は今は極力避けて、楽しかった思い出や暖かな記憶を多く語り合ってゆく。
父の話を聞く度にわく愛されていたのだという実感が、どうしようもなく嬉しくて幸せで……切なかった。
もっともっと父や母に触れていたかったという想いが強まっていくのを懸命に耐えながら。
兄たちが帰ってくるまでの間、限りがあることから目を逸らして、私は父と今話していられる幸せを噛みしめていた。
第十五幕・了
[*前] [次#]
[目次]