とっさに、僕は手にしていた白木の弓の弦を引き、弾いて鳴らした。

同時に放たれた光の矢が男性の霊へと向かい、透けるその身を貫くけれど。

やはり、効いている様子はない。

それでも彼の意識を再びこちらへと向けることはできた。

男性の霊が僕へと向き直ったことを確認して、僕は深紅さんへと声を張る。


「深紅さん、今の内に早く奥へ!」
「っ、は、はいっ!」


躊躇っている場合ではないと判断してくれたのだろう、深紅さんは男性の霊の動向に注意しながらもすぐに立ち上がり、廊下に出て奥へと駆けて行ってくれた。

僕は男性の霊の注意が深紅さんへと向かないよう、僕に引きつけておくために、間断なく白木の弓を鳴らし続け。

深紅さんの姿が見えなくなってから、自分の逃げる隙を窺う。

近付かれたら間違いなく僕の方が不利なので、男性の霊との距離に細心の注意を払うことを忘れない。

黒の着流しを纏ったその霊は、ゆらりゆらりと体を揺らしながら、片手に刀を携えたままゆっくりと距離を詰めてくる。



……ん? 黒の着流しに、漆黒の髪……。



そうか、彼が似ているのは……。




「っ!」


まずい、意識を思考に向けていたせいで、注意が散漫になっていた。

距離を縮めないよう後ずさっていた僕の背中に堅く冷たい感触が伝い、ひやりと背筋が冷たくなる。

壁……もう、後はないという事実……。

うまくあの霊の横を通り過ぎない限り、深紅さんの後を追うことも、一旦外へ逃げることもできない状況になってしまった。

……困ったな……。

荒事に慣れているわけでもないし、取り立てて運動が得意ということもない僕には、刀を振り回す相手の間合い内を走り抜けるなんて、運が味方してくれでもしないと難しい。

白木の弓を握る手に、知らず力が込もった。

分は明らかに悪いし、状況もかなり絶望的。

だけどそれでも、僕に諦める気なんて更々ない。



……茨羅、君と生きると約束したから。



どうにか隙を見つけ出そうと焦る気持ちを懸命に抑えて、相手の様子のそのすべてを見落とさないようしっかりと見据える。

急いて事を仕損じては意味がないから。

ゆらり、ゆらり。

僕が隙を見いだせないでいる間にも、男性の霊は着実に距離を詰めてきていて。

鈍く輝く刃と、それに付着した生々しく滴を垂らす赤い液体を目に、鼓動が徐々に速さを増してゆく。

まずい、このままだと……。

だいぶ詰まってしまった距離に、本当に後がなくなってきたなと胸中で焦る。

ここはもう、意を決して行くしかないのかな……。

黙ってただ斬られるだけなんて、願い下げだし。

ぐっ、と。

決意を込めて拳を握りしめたその瞬間。



ふわり。



柔らかな風が、肌を撫でた。



……風? 屋内なのに?

思わず目を瞬いて戸惑う僕の目の前で、何故かあの男性の霊の動きがぴたりと止まる。

その視線は、僕から逸れて宙空へと注がれていた。

……何だろう、一体。

不思議に思うけど、とにかく今はチャンスだ。

今ならきっと、抜けられる。

そう判断するが早いか、僕はすぐさま駆け出して、先に深紅さんが向かっていった廊下の奥を目指した。

幸い、何故かあの男性の霊が追ってくる様子はなく、廊下の奥の戸を抜けるとすぐに、その戸を素早く締め切る。

同時にあの霊の気配も断たれ、一息吐いて胸を撫で下ろした。


「……樹月君」


ふと名を呼ばれて一瞬驚いたけど、すぐに声がした方向へと振り向けば、今の僕の向きから左手方向に伸びた廊下の先から深紅さんが駆け寄ってくるところで。


「良かった。無事だったみたいですね」
「何とか。深紅さんは大丈夫でしたか?」
「ええ、お蔭さまで。ありがとうございました」
「いえ」


お互いの無事を確認して二人で揃って安堵の息を吐く。

ようやく少し落ち着いてきたので、さっきのあの風と男性の霊の異変についてを考える余裕ができ、少し思い返してみることにした。

唐突にどこからともなく吹いてきた柔らかな風。

それが吹いた直後に動きを止めたあの男性の霊。

余裕がなくてしっかり確認できたわけじゃないけど、彼が向いた方向には何もなかったように思う。

いったいあれは、何だったのか。

思い返して考えてはみたものの、思い至ることは何もなく。

でも、あれを運の一言で済ませてしまっていいものだとは思えない。


「あ、そう言えば、この先の部屋でこれを見つけたんですけど」


思い出したように声を上げた深紅さんに、思考を中断して顔を向ける。

彼女が差し出してきたそれは、一枚の紙片だった。







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