ロク
「茨羅!」
「兄、さん?」
兄が、帰ってきた。
けれど……。
樹月たちの禊ぎはもう、始まってしまっている。
ロク・トウボウ
兄がどこかへ出掛けてから、もうだいぶ経つ。
今までは度々出掛けることがあっても、その期間は短かったのに。
どうして、今回に限って帰ってこないのだろう。
どこかで怪我をしていたりしてないかなと、兄の強さを知っていても心配になる。
樹月たちの儀式の日も、近付いてきていて……。
それなのに何もできない自分がもどかしくて悔しくて、気ばかりが焦ってしまう。
諦めてなんかいないのに、自分にできることが……何が最善となるのかがわからなくて腹立たしくさえ思っていた。
そんな時、私と千歳ちゃんにあてがわれた部屋の扉が、唐突に勢いよく開かれる。
「茨羅!」
現れたのは、心配していた私の兄。
「兄、さん?」
突然帰ってきてくれたことに驚く私を見つけるなり、兄はすぐさま強く抱きしめてきた。
「茨羅、無事かっ?」
「う、うん。私は、大丈夫……」
ちょっと苦しいけど……。
私がそう思っていると、傍にいた千歳ちゃんが兄の着物の袖を掴み、軽く引く。
私を抱きしめたまま、兄の視線がそちらへと向けられた。
「お兄ちゃん。おかえりなさい」
「ん? おう、千歳。元気だったか?」
「うん! ちとせはげんきだよ」
「そうか」
ようやく私から僅かに離れ、兄は千歳ちゃんに笑顔を向けると、彼女の頭を優しく撫でる。
それが嬉しいみたいで、千歳ちゃんからも笑みが零れていた。
「ああ、そうだ、千歳。悪いんだが、八重か紗重のところに行って水貰ってきてくれねえか?」
「おみず? うん、わかった」
たぶん、兄はこれから千歳ちゃんには聞かれたくない話をするつもりなんだと思う。
兄に言われた通り、素直に部屋を出て行く千歳ちゃんの背を見送って、兄は改めて私へと向き直った。
「茨羅、遅くなって悪かったな。現状は八重から聞いた」
予想通り、千歳ちゃんには聞かれたくない話が始まり、私は姿勢を正して兄と向き合う。
現状……それって樹月たちのこと、だよね……。
「兄さん、私……」
「茨羅、雛咲を頼れ」
「え? ひ、ヒナサキ、さん?」
何? 突然……。
話し出した言葉が素早く遮られ困惑する私に、兄は変わらぬ様子で強く頷く。
「そうだ。忘れるな。雛咲……深紅だ」
「え、あの……何の話かわからないよ」
樹月たちのこととそのひとに、いったい何の関係があるというの?
話を理解できずにいる私に、兄は一拍置いてから静かに……けれどはっきりと告げた。
「茨羅。いいか、お前は生きるんだ」
「……兄、さん?」
それはいつも言われていた言葉。
生きろ、と、幸せに。
兄の口癖みたいなその言葉は、ことあるごとに私の耳に届けられ続けてきた。
けれど……。
どうしてだろう、その言葉の持つ何かが、いつもとは違うように思える。
「でも、兄さんは? それに私、樹月と睦月を放ってなんておけない」
困惑と戸惑いと……続くであろう兄の言葉を想像することが……怖くて。
知らず上擦ってしまった声音で、それでも強く自分の想いを伝えた。
けれど兄がそれに頷いてくれることはなく……。
「お前が生きてくれることが、二人の望み。千歳や、八重や紗重の望みでもある。だから……」
言いながら、兄は再び私を抱き寄せた。
痛いほどに、苦しいほどに力が込められたその腕の強さに、思わず私の眉が寄る。
直後、私の体が、淡く光りはじめた。
これは……兄の能力が使われる前兆……。
「嫌……っ! 嫌だよ、兄さん、離してっっ!」
駄目……っ、私は、私は樹月を……っ。
樹月やみんなを置いて、逃げるわけにはいかないよ……っ!
「これを……。使う日がこないことを願うが、いざとなったら役に立つ」
「これって……」
確か、真壁さんが持っていた、射影機と呼ばれる箱。
兄はそれを半ば強引に私に押し付け、改めて私を抱きしめ直す。
もがこうとしても、兄の力に私がかなうことはなかった。
「……霊力によって威力がだいぶ変わるものだが、お前なら大丈夫だろう」
そんな……。
私は、私ひとりで助かっても、全然大丈夫なんかじゃないよ……っ!
私、まだ諦めてなんかいないのに……っ。
「茨羅、幸せに」
「兄さんっっ!」
――樹月、睦月……みんな……っ!
お願い、やめて、と。
兄に訴えようとしたその声が喉を通るよりも早く、私の意識はぷっつりと……途絶えた。
ロク・了
[*前] [次#]
[目次]