イチ


幼い頃から幸せになれと兄に言われ続けて育ってきた。

けれど、私にはどんな想いで兄がそう言い続けているのかわからなくて。

それでも父と母の顔すらも覚えていない私は、二人に代わりずっと私を育ててくれてきた兄の言葉を叶えたくて。



幸せにならなければと、強く想い続けていた。












イチ・ツイオク












私の記憶は、既に皆神村に来ているところから始まっている。

兄に教えてもらっていなければ、私はずっとこの村の出身なのだと思い込み続けていたかもしれない。

だから当然、というわけではないけれど、両親のことは何も覚えていなくて。

兄はあまり多くを語ろうとはしなかったけれど、たぶんもう会えることはないのだろうと、頭のどこかで感じていた。


「茨羅」


思考に耽っていたところ突然名を呼ばれて振り向けば、柔らかく微笑む樹月と目が合う。

いつ来たのかも気付かなかったくらいぼんやりしていたと思うと少し恥ずかしくて、私はそれを誤魔化すかのように小さく笑って返した。


「あ、えっと……樹月」


……つい最近まで彼のことも兄と呼んでいたため、名前を呼ぶことにまだ違和感を感じてしまう。

少しだけ詰まってしまった私の言葉に、樹月はどこか楽しそうにも見える笑みを浮かべた。


「やっぱり、まだぎこちないかな」
「ご、ごめんね……」



樹月は笑ってくれているけれど、私にはかなり余裕がない。

名前で呼ぶ、なんて、まだ気恥ずかしくて仕方なかった。



こうなったのも、ある意味では兄のせいなんだけど。



つい最近になって、兄は私に私たちは本来この村の村人ではないのだということを教えてくれた。

確かにそれは凄く衝撃的だったけれど、私が茫然とするよりも早く、兄はきっぱりと告げたのだ。


「そういうわけだから、茨羅。もう樹月と睦月を兄と呼ばなくていいぞ。お前の兄は俺だけだからな」
「……え……」


理解がまるで追い付かずに困惑する私と、呆れ気味の樹月と睦月。

樹月は苦笑を浮かべて、睦月は溜息を吐いて。

それでもそれぞれが変わらぬ様子で言葉を紡ぐ。


「じゃあ茨羅、僕は樹月って呼んでもらっていいかな」
「なら俺も睦月で」


え、な、何で二人共そんなにあっさりしているの?

私、まだうまく状況を理解しきれていないよ……。

なんだかひとりで置いてきぼりを食らったみたいで、私には何て言葉を返したらいいのかもわからない。

だというのに、兄はやっぱり気にもしないみたいで。


「茨羅、あいつらもああ言ってるんだし、あいつらのことは名前で呼ぶんだぞ」
「う、うん……」


もうどうしていいのかも、どうしたらいいのかもわからなくて、つい言われるままに頷いてしまった。

兄はいつでも強引で。

だけどそれが私の兄なのだと私もみんなもわかっているから。



結局こうして全てが決まっていくことに、不思議と不満や不快などは感じたりしないんだ。









「……茨羅?」


呼ぶ声に、すぐに我に返る。

いつの間にか意識を過去へと飛ばしてしまっていたらしい。

またぼんやりしてしまったことに申し訳なさを感じて、私は慌ててしっかりと樹月に向き直る。


「あ、ご、ごめん。何?」
「今、八重たちが遊びに来たから呼びに来たんだけど……」
「本当っ? すぐ行く!」


私は樹月に笑顔を向けると、すぐに一緒にこの部屋を後にした。

きっとこれからもそんな日々が続いていくんだろう、と。

無意識にそう思う、そんな日常。










イチ・了


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