十二月の空は高く、手を伸ばしても何も掴めそうになかった。
青と灰色と白を混ぜて混ざりきらないままほったらかしにされたような空はただ冷たくて、去年のあたたかな冬を嫌でも思い出す。あの大きな、骨ばった手に手を握って欲しい。寂しい気持ちになるのは、この空のせいだ。自分の吐く息を手にあてて無理やり温めた。
いつも、こんな風に寂しい時はどうしていたんだっけ。そう思考を巡らせて思い出すのも、彼のことだった。一松は誰よりも寂しがり屋だったから、誰よりも人の寂しさに敏感だった。もしかすると私よりも、私の寂しさが見えていたかもしれない。私が不安で胸が押しつぶされそうになって、頭がぐるぐる回って目が冴えて眠れない時、一松くんは何も言わずに話を聞いてくれた。
「ごめんね、眠いよね」
「おまえも寝たいでしょ。でも寝れないんでしょ」
布団の上にふたりで座って、指先に触れて、否定も肯定もせずに頷いてくれた。私が泣き疲れるとそんな夜だけの特別なホットミルクを入れてくれて、うつらうつらと船を漕ぐ私の背中を優しくさすってくれた。
逆に、一松が眠れない時、一松は多くを語ってはくれなかった。語ってはくれなかったけど、何も言わずに私の布団にもぐり込んできて、手を絡めてきた。それが私には必要とされているようで嬉しくて、いつでも冷えているその手を両手で握って温めた。私は学生だったし、一松は仕事をしていなかったから決して裕福とはいえない二人暮らしだったけど、私たちにとって何より必要なものがちゃんとあった。

今、小さな夢を追うために毎日忙しなく過ごしている私やっとのことで繋ぐのは、そんな尊い思い出を一松がたくさん残してくれたから。でもそんな思い出がどうしようもなく恋しくて、不安で眠れない枕を一人で濡らす夜もある。まさしく今日がそんな日だった。とりとめのない暖かな思いでが、後悔と共に流れていく。
私がやっとのことで目指していた職種に内定を決めたことを告げた時、一松はゆるく笑って「おめでとう」と言ってくれた。「受かって良かったね、頑張ってたし」とも。珍しく一松が手放しで私を褒めるものだから、嬉しくなって腕によりをかけて料理を作る私を眺めながら換気扇の下で煙草を吸う一松に「邪魔だよ」なんて笑いかけるのは、まさしく幸せなひと時だった。
「煙草って美味しい?」
「別に、美味しくはない。旨いけど」
「私にも一口ちょうだいよ」
「僕がすることなんでも興味持つのやめなよ、早死にするよ」
「でもさ、一松がどんな気持ちで煙草吸ってるのか、興味ある」
「…はあ、これキツいやつだから吸ったことない奴には無理」
そう言って一松は吸った煙を私の顔に吹きかけた。せきこみながら「どちらにせよこれじゃ、副流煙で私も早死にだよ」と文句を言うと、一松は「じゃあ一緒に早死にしようよ」なんて言ってニヤリと笑った。
その後作った料理を食べて、せっかくだからと珍しくお酒もあけて、私はいつもよりずっとはしゃいでいた。そんな私を見る一松の表情にも気づかずに。
「私が就職したら、もっと生活楽になるね」
「…うん、そうかもね」
「もっとキレイで、広い部屋に住みたいなあ」
築三十年オーバーの狭い部屋を見渡すと、黄色くなった壁に、電気のヒモに括り付けられた猫のキーホルダー、壁に貼り付けられたゴミの日のカレンダーにすら、私たちの生活が色濃く染みついていた。私はこのこぢんまりとした幸せもとても大切だった。あの時それを伝えられていれば、違う今があったのかもしれない。

今は一人で住んでいるそのアパートに帰ると、寂しさは押し寄せる波のように強くなった。深く深くため息を吐いて涙を押し込むと、タイミングを計ったかのように電話がかかってきた。上司だったらいやだな、と思ってしまう自分に自己嫌悪しながらも画面を見ると、それは久しぶりに見る一松の兄弟の名前だった。電話の内容は久しぶりに飲まないかという誘いだった。一人でいても寂しいだけだし、それもいいかもしれない。
「一松はいないけど、」
「うん、ありがとうね。」
「ううん、ごめんね、うちの弟が寂しい思いさせて」
電話の相手、おそ松くんはいつも決まり文句みたいにこう言う。
「一松は絶対嫌いになって出てったんじゃ無い筈なんだよ、それだけは信じてくれないかな」
「わかってるってば。何回言うの、もう。よくわかってるよ、私が一番」
「…そーだよな。ごめんごめん、じゃ、チビ太のおでん屋で」
私の作り笑いに、おそ松くんも笑ってくれた。本当に彼は、狙っているのかいないのか、タイミングがいい。いや、きっと狙ってなんていないのだろうけど。一松の気配が残る部屋にこれ以上いられなくて、私はすぐに家から出た。
もう半年以上経つのに、いつもいつも一松のことを思い出す。それは私がどれだけ一松に助けられていて、一松を必要としていたかの証明のようだった。

大学の卒業式の後、両親と別れて私は足早にアパートに向かっていた。両親は私たちの関係を知って応援してくれていて、一緒に美味しいものでも食べなさいと言ってくれた。朝、いつもと変わらない様子で私を見送ってくれた一松が待ってくれている。ひとつの終わりとたくさんの新しい始まりに胸を高鳴らせた私がアパートへ帰ると、そこには誰もいなかった。いつもと変わらないはずの室内なのに、何か足りないような、不安を書きたてる空気を感じ取った。私を出迎えてくれるはずの一松の代わりにちゃぶ台に置かれたメモの存在に気づいた時、文章に目を通す前にもうひとつの終りを悟った。
それきりだ。どこに行ったかも、何をしているのかもわからない。松野家の家族も何も知らされていないようで、一緒に探してくれたけど、見つけることはなかった。真面目な一松には、働く私と働かない一松という図は耐えられないものだったのかもしれない。指先に夢が触れかけている私が、一松を置いて行ってしまうと感じたのかもしれない。どんな憶測も今となっては無意味なもので、後悔ばかり押し寄せてももうできることは何も無い。元々ひとりでなんでも決めて、決して曲げない人だったから、ふらりと帰ってくることもないだろう。私たちはそう結論付けて、比較的早々に一松探しを止めた。きっと一松なら大丈夫。何度も言われたし、自分でもそう言い聞かせた。でも私に空いた穴は大きく、それ以来、彼ら兄弟は何かと私に気を使ってくれるようになった。
いつものように飲んで、騒いで、賑やかさで寂しさなんて吹き飛ばしてしまう彼らのおかげで楽しい夜を過ごした。「また誘うからさ」という言葉と共に手を振りあって別れると、外は雪が降りそうなほど寒かった。ポケットにつっこんでいた鍵を握りしめてなんとか温度を求めていたら、私の部屋の前に黒い影が見えた。私はその影に、強い既視感があった。直感が確信を促す。近づく音が、握りしめた手のひらが、吐く息が、瞬くこともできない瞼が、震える。それは強く、つよく焦がれていた、紛れもない松野一松だった。

「…どうして、」
「久しぶり」

言いたい文句も、投げつけたい気持ちも、聞きたいことも、ぶつけたい手のひらもあったけど、何一つできず、ただ一松にしがみついた。逃げないように、ここにいることを確かめるように。思いっきり抱きしめると、呼吸もままならないほどきつく抱きしめ返される。変わらないにおいに、涙腺がゆるんだ。

「これからは僕もおまえを支えるから、二人で暮らそう」

そう言って体を離した一松は、コートの中から預金通帳を取り出した。「とりあえず百万入ってる」びっくりして一松の顔を見上げると、少し痩せていることに気が付いた。「何その顔、ちゃんと昼間働いて稼いだ金だから」そう言って、少し笑って、再び隙間がないくらいに抱きしめられた。はあ、と吐かれる熱い息がうなじにかかる。

「そんなに遠くない場所にある綺麗な二人暮らし用マンション借りてる。そこでふたりで暮らそう。いきなりいなくなったのは、宣言したり会ったりしたら意志が弱ると思ったから。…勝手にひとりにして、ごめん。もう離さないから。離せない」

キンと冷たい空から、粉雪が降ってくる。ここにいるのは私と一松だけ。この寒さすら、一松のぬくもりをめいいっぱい感じるための演出に感じられた。こんなありふれたハッピーエンドも、今なら許せる気がする。

「でも、今日は、このボロアパートで寝たい」
「うん、一松、おかえり」
「…ただいま」
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