チョロ松が用事を終えて彼女の家に向かう頃には、陽がすっかり傾いていた。紫色と橙色が溶け合う異様な世界を一人で歩いていると、言い知れない不安が胸をかすめる。長く伸びる電柱の影、陰影がはっきりと見える隙間、知らない鳥の鳴く声。ゆらりゆらりと揺れる自分の黒い影を見ていると、別の世界の入り口に立っているような錯覚に陥る。誰だってそうだ。ただ、誰もがそれを見ないふりをするだけ。大人になるとはそういうことだ。チョロ松はただ、早く恋人に会いたい、と思った。
空が濃紺に染まりきる前に頃に彼女のいるアパートにたどり着く。彼女の部屋の窓を見ると、ただ濃紺を反射しているだけで明かりがついていない。昼過ぎに連絡を寄越した時点では、家にいるということだったが。コンビニか、或いはスーパーか。チョロ松はさも当然と言った動作で、カバンから合鍵を取り出した。
ガチャリと鍵の回る音がする。扉を開くと生ぬるい空気が身を包む。出かけてから大して時間は経っていないようだ。余りに無音な空間に、脱いだ靴を落とす音がやけに響く。そんな必要はないのにそっと部屋に入ると、そこには毛布にくるまって寝息を立てる恋人がちゃんといた。

「…なんだ」

そのまま寝かせておいても良かったが、なんとなくチョロ松は彼女に起きて欲しかった。先ほどまで黄昏時の魔に足を引っ張られていたからかもしれない。背負っていたリュックを床に置いてベッドに片膝をつく。彼女はまったく起きる気配を見せず、呑気に寝息を立てている。電気の紐を片手に、彼女の顔を覗き込んで、チョロ松は目を丸くした。彼女の顔に涙の跡がついていたからだ。こういうところがあるから困る。なんでも溜めこんで、上手に吐きだせない。チョロ松は大袈裟にため息をついて、電気の紐を手放した。
男として、頼りにされたいという欲がある。彼女がチョロ松を頼りにしていないのではなく、単純に溜まったものを吐きだすのが苦手なのだということはよくわかっていたが、面白くはない。チョロ松はベッドの空いたスペースに腰をおろし、毛布ごと彼女を抱きかかえた。顔にかかった前髪をはらって、乾いたまぶたに唇をおとす。

「起きて」
「………ん」
「お前なあ…僕がいるんだからそんなに溜めこむなよ」

彼女の背中をトントンと叩きながら耳元で囁くと、状況を理解しきれていないような「チョロ松?」という声がかえってきた。そうだよ、と返すと、理解がおいついてきたのか「ごめんね」などといわれる。それは欲しい言葉じゃない。

「チョロ松が来るまでに元気になっとこうと思ったんだけど、寝ちゃってた」
「いいよ、僕の前で泣いても」

むしろ泣いてくれ、という本心は言わなかった。ただこの手の中にある彼女の温度だけで十分だった。覚醒した彼女は恥ずかしがってすぐにチョロ松から離れてしまったけど、続きはまた後で、ということにしよう。

「なんか食べたい」
「今日は肉じゃがだよ。鍋に寝かせてある」

そうして、ようやく部屋に暖かい明かりが点いた。
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