あの日のわたしもそうだった。
なにも知らない、無知で無邪気で愚かなわたし。
なにも知らなかったから、わたしはなにかを得てしまったの。
ええ、そうよ、愛というものをね。
【無知・愛・憎悪
 著者 へそまがりみそか
 125ページ 4行目より引用】


私は狭い空間にみっしりと詰め込まれ、静かに呼吸する本に囲まれて、そのうちの一つのページを静かにはぐった。入り口から入る涼しい風が、本たちと私を通って消えて行く。ここは私の祖父が営む古本屋だ。私は高校生になった頃から、度々ここでお小遣い稼ぎをしている。主に昼間の祖父が本の回収に行く時間と、放課後から閉店まで。生来本に囲まれてきたので本を読むのは大好きだし、こんな楽なバイト他にない。
休講になった私が怠惰な平日をほんと共に楽しんでいると、ゆるやかな風と共に珍しく客が来た。うちは割とマニアックな古書が多いので若い客は珍しい。その人、一松さんは私と彼が学生服を着ていた頃から、割と長い期間ここに通ってくれている。というか同じ高校だった。学校でも図書委員をしていた私は、しょっちゅう一松さんの図書カードに判子を押したものだった。
今日は店番を祖父がしていると思っていたのか、一松さんは少し驚いた顔をして、軽く会釈をくれた。

「ども」
「こんにちは、一松さん」

この人は、芥川龍之介や太宰治に傾倒したと思えば、めっきり来なくなって、次に来た時宮沢賢治を買っていくような不思議な人だ。
でも私は、猫背の後ろ姿がこの空間にマッチしていて、嫌いになれない。
会計用の机に肘をついて、本に向き合う一松さんの背中を眺める。
私はいつもの本を読む時間とは別に、このささやかなひとときも、特別に好きだった。

結局今日は、一松さん好みの本とは出合えなかったらしい。私をちらりと見てから店を去ろうとする一松さんに、珍しく声をかけた。

「一松さん」
「…はい」
「また来てくださいね」
「ええ、また貴方が店番の時に」

私がひそかに彼が好きそうだと思った、右端の棚の四段目にある文庫本と出会う日は、果たして来るのだろうか。
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