from Mayhem :16


「どうした、言葉まで失ったわけではなかろう」



此処へ落ち着くまで一言も口に出さず、困惑の表情を浮かべるマキナを膝に座らせ、頬に手を遣りながら猫なで声で囁くものの、困惑は深まるばかりのようだった。ギルガメッシュのその言葉通り、言語機能まで失った様子は無く…不用意に言葉を発さずに、自分を取り巻く状況の把握に努めているらしい。

――のだが…。一人、黙したまま思索を巡らせてもほとほと理解には至らず。頬にギルガメッシュの指先が触れた際に身を強張らせ、今も息を潜めていることから、非常に警戒しているらしいことが判る。幾ら記憶を失っているとはいえ、彼女の常識に於いてこの状況は不可解極まりないようだ。



「……」



一瞬、何かを言おうと口を開きかけたマキナだが、やがて噤んでしまう。何しろ元よりこの男の瞳には、普段のマキナですら萎縮してしまうことがある。そして人ならざるものの凄絶なまでの気配に、ただの人間であれば呑まれてしまうだろう。幸か不幸か既に此方も次第に“人ならざるもの”になりつつあるマキナはその存在感に呑まれてしまうことはないが、酷く居心地は悪いらしい。“下ろして欲しい”と目で懇願し続けている。それを意に介さずに、ギルガメッシュは、なぞる様に親指の腹を頬に這わせた。



「その様子では――…夫の顔も忘れてしまったようだな?」
「おっ…と…………?」



余程驚いてしまったのだろうが、それでも思わず漏れ出た声はか細く弱々しい。一層焦るマキナの様子を愉しみながら、その唇が次の言葉を紡ぎ出すのを待つ。



「夫婦…だったんですか…?私たちは…」
「そうだ」



間を置かない返答に、マキナが固まる。瞬きすらせずにただギルガメッシュを見詰めていた。そんなマキナを追い詰めるように、ギルガメッシュは囁き続ける。



「我とお前はな、誰もが羨む理想の夫婦であった」
「…!!…」



その言葉に、マキナは最大限の困惑を。顔を赤らめて遂に俯いてしまった。俯く寸前の表情はどこか沈痛でもあった。そのまま暫しの沈黙が続き、やがてゆっくりとマキナが顔を上げる。



「それなのに…私は……忘れてしまったんですか…?」



泣きそうな表情だった。心底申し訳無さそうに、唇を噛み締めながら。声を震わせながら、やっとのことで次の言葉を紡ぐ。



「大事な旦那様のことを…?」
「――…」



ぞくり、と肌が粟立った。やや背徳的でもあるが、嘘を言ったわけでもなし。本来、否、いずれはこうあるべきなのだ。思わず大笑しそうになるのを堪え、愛しむよう微笑み掛けて言った。



「そう落ち込むな、お前が記憶を失ったのには、我にも責任がある」



そう慰めてやっても、依然マキナの表情は芳しくない。恐らくは自責し続けているであろう彼女の背中を抱き寄せ、自身の胸に、肩口に埋めさせる。それに…少々消極的ではあったが、拒むことなくマキナは身体を預けたのだった。



自分はこの男に、名前も覚えていない男に、愛されていたのだろうか。そうに違いない。何しろ記憶を失った自分を咎めもせずに慰めてくれる。優しくされればされる程に罪悪感を感じた。何故彼のことだけでも覚えていられなかったのだろうと。自分の名前も、此処はどこで、何故こうしているのかも何もわからない。ただ漠然とだが…この男にこうして愛されるには、自分は不相応ではないかと思えてならない。彼がどういう由来の男で、何者であるかも、わからないのだが。

金髪の美青年。年若いが自分よりは一回り近く歳が違いそうだ。Vネックの白いシャツに、蛇革のレザーパンツ。首と両腕には、金塊を連ねた…どこかエキゾチックな風合いの装飾品。…庶民ではないだろう。何しろこの部屋自体が王侯貴族の城の一室のようで、男と自分が腰かけているのは椅子というより玉座と言った表現が近い。そんな男の妻であるらしい自分は一体何者だったのだろう。

何故だか自分は高貴な身分ではない気がしている。何処かで見初めてもらったのだろうか。相変わらず状況が掴めないままだ。男に訊けば、答えてくれるだろうか?



「あの…」
「何だ?」



マキナが恐る恐る問いかけても、相変わらず男の機嫌は良いままで、小柄とはいえ人一人が膝上に乗っているにも関わらず寛いだ姿勢の侭マキナの言葉を待った。



「旦那様は高貴な身分の方とお見受けするんですが…どうして私なんかをお嫁に貰ってくださったんですか…?」



普段の謙遜は、ギルガメッシュがマキナを雑種呼ばわりする所為かとも思ったが、どうやら元々らしい。少々呆れつつも、表情は柔らかいまま…ただ確と瞳を正面に捉えたまま話す。



「“高貴な身分の方”ではない」
「そうなんですか…」
「我は王だ、世界を手にした唯一無二の王ぞ」
「お…王様…!?」



その言葉にマキナは酷く狼狽した様子を見せた。当然か、記憶を失った自分が、気が付けばどこぞの王の膝上に座っていたのだ。しかもただの王ではないらしい。世界中を自分のモノにした王?一人の男が世界中を統べるなど…在り得るのだろうか?マキナがそう逡巡しつつ無意識に目を逸らすと…それを許さず、男は再度その大きな手でマキナの頬を包み込み、上向かせた。



「わかるか?王の妻であるお前は要するに王妃だ」
「…?、……??…………!??」



言うに事欠いて王妃とは何事だ?なんと自分に不似合いな称号だろうか。人違いだとしか思えない。このトンデモ王の存在だけで眩暈がするというのに、記憶を失う前の自分は、本当に一体、何者だったのだろうか。



「確かに我は何者にも替え難く、何者にも侵されざる存在。我を於いて他に王を名乗る資格のある者はおらぬ。世に遍く雑種どもが我に畏れ戦き傅くのは当然のことだ。だが――…お前はこの我に相応しいと、我自らが認めた女。故にお前はこの世において、我に並び最も尊い存在だ。もっと自覚を持たぬか」
「……」



堂々としていろ、ということらしい。正直現段階ではとても無理な相談である。話の内容は全てが出鱈目だとしか思えないものの、男の様子からは、嘘偽りを話しているとは到底思えない



「…どうして私なんですか…?」



その問いに、男はじっとマキナの瞳を見据える。その赤い瞳は、相手がマキナでなければ
僅かにでも男の機嫌を損ねようものなら、次の瞬間には相手の首を刎ねていてもおかしくないような冷たさを孕んでいた。怒りも不快さも微塵も滲まない、澄んだ瞳なのだが。その瞳に怯えることはなかったが、だが焦りはしたマキナは少々慌てて続きを付け加えたのだった。



「その……旦那様は、私のどこを…良いと思って下さっているんです…か…?」
「全てだ」
「…!?」
「最初は生意気な女だと思ったがな、…今はお前の全てが愛しい」
「わ…私は旦那様に何か無礼なことを…?」



特に脚色なく全て正直に話しているのだが…マキナの取り乱しようがどうにも愛らしく、嗜虐心を煽られたギルガメッシュは、続いても矢張り正直に答えてやることにしたのだった。馬鹿正直に訊いてくるマキナも悪いのだ。



「王の配下を自称しておきながら、我をロクに敬いもしない」

「王たる我の決定に悉く逆らい、我の善意を悉く無下にし」

「挙句、我が王であることを否定もした」

「お前は我を心の底から愛しているというのに、それをひた隠しにし、自らの心すら偽る」

「度し難い女であったな」



そこまで訊き終えたマキナは、呆然とすらしていた。案の定。相変わらず、その様子を見るのは笑いが堪え切れなくなる程愉快なのだが…あまりこうして彼女追い詰めて、また彼女の自信を失わせるのも不本意ではある。



「あ…悪女じゃないですか…! 悪妻ってゆーか…」
「なに、かわいいものだ。素直に我を愛するようにするまでに苦労はしたが」
「た、大変なご迷惑をおかけしたみたいで…」



マキナはますますわからなくなった。最早この夫殿は菩薩並に寛大な御心を持っているとしか考えられない。そして自分は何故、そんなに反抗的な態度を彼に取っていたのだろうか。この酷く優しい夫殿を前にしては、自分自身のこととはいえ全く理解ができないのだった。無意識に深い溜息を吐いたマキナの頬が、再度撫でられる。マキナはゆっくりと顔を上げる。すると、意外にも、男の方もどこか苦々しい表情を浮かべている。



「だがな…我もお前以上に辛い仕打ちをしてきた。それを考えればお前が我にしたことなど瑣末なものだ」



そう言って、男はマキナの頭を胸に抱き寄せたのだった。その言葉に、マキナは慰める術を持たなかった。自分の知らない…覚えていない歴史があった。知らない自分が、「そんなことはない、酷くなど無い」と何故言える。言えないからマキナはシャツをぎゅっと握りしめ、目を閉じた。

一体何の不満があって、自分は彼にそんな態度を取っていたのだろう。今からでも、少しでも改めなければ…。



「私…頑張って良いお嫁さんになれるよう努力します」



その言葉に、マキナの背中を覆っていた手が僅かに反応する。



「…愛い奴よな。…だが、努力する必要は無い」
「え…」
「お前は既に良き妻だ」



思わず顔を見上げたマキナの頭にぽんと手が置かれる。



「お前は今のままでよい」



反対の右手でテーブルの上のゴブレットを取る。その様子を無言で見詰めていたマキナを見て、それを自身の口に運ぶ前に 飲むか?とばかりにマキナの方へと向けたが…マキナは無意識に首を振っていた。自分が飲めるかどうかも覚えていないのに断ったのは恐らく本能からだろうか。続いて男が優雅に飲み干す様を見詰め続けていたマキナはやがて小さく決心し、またギルガメッシュに問うのだった。



「あの…今更こんなことお聞きして申し訳ないんですけど…」
「なんだ?」
「……お名前、何と仰るんですか?」



男が俄かに目を見開く。相変わらず、心底申し訳なささそうに消極的に問うたマキナを余計に慌てさせるのは可哀想でもあるのだが。



「我の名前まで忘れたか」
「………すみません…」



案の定消沈してマキナの目が翳る。



「我の名はギルガメッシュ」
「――…!」



その答えにすぐに顔を上げ、マキナは目を瞬いた。



「ギルガメッシュ…」
「うむ」
「強そうな…お名前ですね」
「そうであろう、事実我はウルクで最も猛き男であったからな」



反芻するようにその名前を繰り返し呟いて、マキナはギルガメッシュに含羞むようにして笑いかけた。



「カッコよくて…強くて優しいなんて…理想の旦那様です」
「我より優れた男など…どこにもおらんからな。それに我には財力もある」
「確かに…凄い金ぴか…」
「フン、我の財力を侮るなよ」



首飾りもブレスレットも、葡萄酒の瓶もゴブレットも、髪まで金色だ。何よりそれが様になっているのが驚きだ。流石は王様といったところだろうか。



「本当に…私には勿体ないような旦那様ですね…」



我の財力を侮るな、と言ったその得意げな表情がどうにも可愛く思え、口元に手を宛て、忍び笑いをしながらマキナはそう言った。

そんなマキナを見詰めながら、ギルガメッシュは何を思ったか。記憶を失う前の彼女の様子を思い起こしただろうか。苦しみもがく、彼女の姿を。自分の中の何かが変わっていく…それを恐れ怯える彼女の姿を。ずっと記憶を失ったままであれば、彼女は幸せだろう。だが、その幸せは紛れも無いものだが、意味が無い。何より彼女自身の救いになっていない。

その昔、彼が出会った二人の“彼女”。その原典が今ここに在る。彼を愛するようになる前の彼女は…あまりにも揺ぎ無く、それでいて危うい存在だった。己の意思を介在させず、常に舞台裏の装置であろうとするとある願い(意志)の体現者(権化)。

以前彼が出会った彼女は、傷つき血を流す事を意にも介さない…例え身体の大半を失っても痛がることすらしない。ただ、目だけが真っ直ぐ前を見据えている。そんな存在だった。その静かで、しかしどこか燃えるような瞳は、彼の脳裏に、瞼の裏に、幾度と無く焼きついたものだ。非人のようで、しかし誰よりも何よりも人間らしい瞳(たましい)――それを疎ましく、忌々しく思うこともあった。



「あ…そういえば…」



その声に、ギルガメッシュの追懐が一度途切れる。記憶を殆ど失った今の彼女の瞳にその鈍い光は見えず…まだ未熟な魂を宿すソレは、紅と蒼を織り交ぜたトンボ玉のようだった。



「今、何時ですか…?私、何か作ります」



嫁ならば食事の用意をしなければならないと思い至ったのか。マキナは慌ててギルガメッシュの膝上から降りようとする。それを阻むように、ギルガメッシュの左手はマキナの腰を抱いたままだ。



「お腹すいてませんか?」



そう問うてくるマキナ。確かに、食事は今日一度もしていない。昨日の出来事以降、マキナは徹底的にギルガメッシュを避けており、食事さえ用意していない。元々回路の不備のためマキナからの魔力供給は充分ではなく、それ故に食事はある程度重要な要素なのだが…ギルガメッシュの単独行動スキルがA+であることに加え、マキナの寝ている間に例の方法で勝手に補給をしてはいるので、取り立てて食事に緊急の必要性はない。



「我のことは忘れても…飯の作り方は覚えているか」
「え、えーと…なんとなく……体が覚えてるっていうか…」
「我のことは体が覚えておらぬのか?」
「…!!」



それを聞いたマキナは硬直し、一気に頬を紅潮させる。瞬きさえできなくなったマキナに尚迫るようにして、その目と鼻の先で笑いかけると、反射的にマキナが仰け反る。



「媾えば我のことも思い出すかもしれんな?」
「えっ……」
「そう驚くことか?夫婦の間に営みがあるのは当然のことであろう」
「……!!………!」



マキナは言葉を失い、身を硬くする。抵抗するのはいつもの彼女も今の彼女も同じだろう。ギルガメッシュは本気だが、強要のつもりはない。だが、今の彼女は数々の負い目から、これ以上彼に迷惑をかけまいとして、最終的には首を縦に振ってしまうかもしれない。それはそれで不本意であるので、彼女を嬲るのもここまでにしておくべきか。



「――…腹が減ったな」
「え?」
「マキナ、何か作れ」



またしても唐突な言葉にマキナが目をぱちくりさせる。話題が変わったことに驚いているにしては、妙にぽかんとしている。



「“マキナ”って、私の名前ですか?」
「そうだ」
「――わかりました。頑張って作ります、旦那様」



成る程、自分の名を覚えていなかったのも当然か。晴れて自分と大事な夫の名前を思い出したマキナは満足そうに微笑んで、すぐ傍にあるキッチンへと走っていった。











霊子虚構世界で繰り広げられる偽りの学園生活。その中での仮初めの空間。そしてその終わりも刻一刻と近づいていく。

遊びつかれた子供のように…閉じそうになる瞼を、その度に無理やりに開いて、振り払うように頭を横に振っては、何度も瞬きをする。記憶の殆どを損傷するような攻撃を受けたのだ。或いは、SERAPHの自動修復(リカバリ)が強制的に始まっているのかもしれない。何よりそんなマキナには今や、それをレジストするスキルさえ失われているのだ。



「王様……」
「なんだ?」



優しく相槌を打つ、その声がまた余りにもマキナを安堵させるので、マキナを一層眠りへと誘(いざな)う。



「私は――…すごく幸せだったんですね。」



言葉通り、幸せの絶頂にあるかのように微笑んで、そうしてマキナは一度涙を流したのだった。――その姿を見るのは何度目だったか。手の甲で涙を拭ってやり、そのまま後ろへ。髪を撫で梳くようにして首の後ろを支えてやる。気持ちよさそうにしてもう一度微笑み、されるがままに頭を預けたマキナの瞳は最早閉じていた。うわ言のようにぽつり、ぽつりと呟く。



「ごめんなさい……私、もう……起きて…」
「――そうか」



静かに応えて、ギルガメッシュはゆっくりとマキナを抱き寄せた。



「ゆるりと休むがよい。だが…次に目を覚ませば、お前には辛い日々が待っていよう」



その警告のような言葉とは裏腹に、更なる眠りを煽るように、とその後ろ髪を手で梳き続ける。



「マキナよ、これだけは努(ゆめ)忘れるな。」



はい…と、まどろみながらそう呟いたマキナの耳元に…そこから通じて脳へと焼き付けるように、静かに、そして聢と囁く。ゆっくりと紡がれた言葉の意味を、夢現ながらも理解したのだろう。その一言の後に、マキナはまた幸せそうに笑んでは頷いた。






(…)
(2012/05/16)






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