Is it real
深淵を覗き見た者が、“歩み往く者はもどることのない道”を辿る、その前に。
interlude
- is it real -
夜の帳も落ち始めた黄昏時、働き手の帰った城砦内の工房、その炉の前。手元の拙い灯りを頼りに、一人の娘が熱心に作業台の上に向かっている。
戸口に飾る魔除けの像に装飾を施しているらしい。ほとんど瞬きもせず、タガネの向きを微妙に調整し、慎重に槌を中てている。
歳は14、5だろうか。織物の工房にこの年の娘がいることは珍しくないが、彫金の工場には通常男のみが働き手として使われる。
一切染色もなく装飾も施されていない、みすぼらしい生成りの綿か麻の衣服。使い古されたであろう鞣革の前掛けは、汚れの付着を防ぐ役目を果たしているようには見えない。境遇が違えば、絹で織られた鮮やかな衣服を身につけ、金やラピスラズリの耳飾や腕輪で花の如く飾り立てるような年頃の娘は、この“作業着”一着しか持ち合わせていない。
しかしそういったことは、彼女の関心事の内にはないらしく、少女は一切の憂いの表情も滲ませていないし、寧ろ町娘…否、貴族の娘たちなどよりも一層、生き生きとした表情をしていた。青磁の肌は所々煤で薄汚れてはいるものの、緊張や疲労は見て取れないし、薄赤の唇の両端は結ばれ、穏やかな笑顔を浮かべていた。蒼に血の赤が混濁したアメジストの瞳は、鉱炉の如く爛々とした光が宿っている。
そして――…何より目を引くのは彼女の髪筋。まるで鉱炉から鋳出し、打ち鍛えたばかりの刀剣かのような白金色―――否、玉鋼色をしていた。
そんな一目の印象だけで、彼女が異質な存在であることは明らかだった。少なくともこの城内―――否、国内にも彼女と似通った魂の色をした者はいないだろう。
勿論、120年の長きに渡りウルクを収める大王の治世のうちに一人もいなかったというわけではない。こういう類の人間は、大抵何らかの功績を残していく。或いは人心を惹きつけるカリスマ性となり、或いは著名な建造物を成し、或いは圧倒的な戦果をあげ敵国を征服した英雄になった。
足りることを知りつつも、上を目指すことをやめない人間。置かれた状況を嘆き、世界を呪う―――そんな人間とは対極の精神の持ち主なのだ。
こうして彼女の印象を総括してみると、最終的には彼女がこの場で槌を打ち鳴らしている光景は、なんら可笑しなものではなかった。
そういった思議ののち、この城(くに)の主は、少女の空間へと踏み入る。
「そこな娘」
槌を振り下ろそうとした手を止め、少女がややぼんやりと振り向く。そして相手が誰かを認識するや否や、少女は先ず反射的に視線を下に逸らした。手にしていた道具も飾りを、慌てて全て台状に置くと、床へと身を伏すように跪き、地べたと口付けるが如く、深く頭を垂れた。
「我が主君――…!」
汚れても尚艶やかに輝く長髪が床に広がる様は、水銀を零したが如く。有象無象の民と話すのであれば、寧ろこの礼を取らねば首を刎ねることもあるが、この城の主であるギルガメッシュは、態々自らの足でこの奴隷の少女の元へと訪れたのだ。―――であるならば、彼には少女の表情(カオ)を見定める必要がある。恐縮して足元すら見ようとしない少女に、ギルガメッシュは命じた。
「娘、面を上げよ」
その命令に、少女はまず一度身を震わせた。一瞬の迷いの後、少女は恐る恐る上体を起こし、一度ギルガメッシュの膝辺りで視線を止めた。だが、意を決して顔をあげていく。
そこには先ほどのような笑顔は当然なく、不安に満ちた瞳も弱弱しい。きつく一文字に結ばれた唇は、言葉を発する勇気さえ失っている。
少女は、自ら王の来訪を気付けなかったこと、そして意図せずとはいえ、王の貌を憚りもなく見てしまったことを、酷く後悔し、自分に失望していたのだった。
ギルガメッシュはその様を、表情も変えずに眺めていたが、やがて右手に握っていた黄金の斧を前へと翳して見せるのだった。それを見た少女は、不意を突かれたかのように目を見開く。他の奴隷が同様にされたのであれば、首を刎ねられると慄いただろうが、彼女にとってのみ、別の意味を持つ。
「この斧を鍛えたのはお前だそうだな?」
それは、実用性の殆ど考慮されていない儀式用の斧で、華麗な彫刻が施され、見慣れない色とりどりの貴石がちりばめられている。その品は、少女が文字通り精魂を込めて打ち、磨き上げたものだ。こうして王が手にしても相応しく思えるほど、素晴らしい品であるのは間違いない。
これ以上のものを作れと言われても、作れない。その出来栄えを少女自身も満足していた。とはいえ―――…それはあくまで一人の人間の主観でしかない。少女は再び不安そうな表情を滲ませ始めたのだった。
「はい、私が鍛えました。……お気に召しませんでしたか…?」
どれ程素晴らしい出来であっても、ただ一人。この国(せかい)の道理(おう)が価値を否定すれば、まるで無意味と化してしまう。この少女にとっても、この国に住まう誰しもにとって、それがまず敷かれた絶対唯一の法である。
少女は改めて裁定を待つ。
一度既に死を覚悟している。
だからこの後どういった罰が下されようとも、心の準備は出来ていた。
「―――いや。良い出来栄えだ。我が友も満足することだろう。」
その言葉を聞いた少女は、安堵の表情を浮かべ、大きく深呼吸をする。そして賛辞に対する心からの感謝の言葉を伝え、何度も頭を下げた。
「―――元は書記官の娘だったそうだな?奴隷の身程で字を理解するのは、父に教わったからか?」
王の問いに、少女は再び面を上げて、目を瞬く。黄金の斧には、装飾の一部として、今は亡き国の英雄に捧げた追悼文と軌跡が刻まれている。奴隷に限らず、多くの民が母国語を読み書きすることができない。しかし少女はひとつの誤字誤用もなく、その全てを正しく記していた。
「教わってはいないのですが……いつも隣で父の仕事を見ていましたので…自然と理解するように…なりました…。」
主君の発言の意図を測りかね、戸惑いながら答える少女。彼女がいつ頃言語を解するようになったのかはわからないが、書記官の残す粘土版には様々なことが刻まれる。そして、それらの殆どは国の政治に関わることだ。つまり彼女は国の情勢を把握していた可能性もあるのだった。その知識を悪用しようというような魂胆は一切なさそうだが。
「夜盗に襲われ両親を失ったが故に、身寄りのないお前は奴隷に身を落とすことになったか。さぞ浮世を儚み、恨んでいることだろう。」
ギルガメッシュはそう言いつつも、“そうではない”ことを既に判っている。この少女には世界を怨むほどの度量の狭さもなければ、世界を呪うほどの大器もない。少女の表情に戸惑いの色が更に深くなる。ギルガメッシュが何を言わんとしているのか、一層わからなくなっている。少女は王の言葉に返答せずに、ただ困惑の表情で見つめていた。
「娘、貴様は何故笑う?」
その言葉に、少女の表情が再度消える。
そうして更なる言葉が下されるのを待つ。
「大事な人間を失えば、人は涙を流し、嘆き悲しむものだ。酷薄な両親だったか?日々惨い仕打ちでも受けていたか?両親を不条理に奪われておきながら―――貴様は何故悲しまぬ」
王の疑問は、人間の情理に照らせば至極当然なものだった。
かつてギルガメシュ王は、親友であるエルキドゥを喪ったとき、彼の遺体が朽ち果てるまで抱き続け、涙を流したという。
だが、少女は逆だ。
彼女は両親を喪ってから半年と経たずに、こうして笑顔を浮かべているのだ。剰え仕事に喜びを覚え、日々を享受している。
ヒトの心を理解できないならば、それは化物に他ならない。
王の問いの意味をやっと理解した少女は何故か少し緊張が解けたようで、肩の力を抜く。瞳には悲しみを湛えつつも、口元に笑みを模り、穏やかに話し始める。
「―――両親が死んで、何日かは悲しみましたし、涙も流れました。ですが…」
何かを思い出すように、少女は目を閉じる。胸に手を当て、祈りを捧げるような神妙さで言葉を紡ぐ。
「私が家族と過ごした時間はとても掛替えの無いものでございました」
「私は彼等から抱えきれない程の愛を受け、言葉に現せないほど幸せでした」
「彼等を失った悲しみを打ち消して余りあるほどの幸福を、私は両親から貰ったのです」
再び目を開くと、少女は顔を上げ王をしっかりと見上げ、目を逸らさない。
「偉大なる王よ、だから私は笑うのです」
「例え過ごした時間が短くとも、その時間は疑いようもなく、幸せでした。」
「それを証明する為に、私は笑うのです」
「私がいつまでも悲しんでいては、両親が私にくれたものを無駄にしてしまう。父と母の『生』を、『死』で台無しにしたくないのです。」
おかしなことに、この自身の不遇を嘆くことのない少女の瞳には、その言葉には、何故か切実な『怒り』が表れていた。そしてその怒りは、ひたすらに前向きな情熱であり、自身の悲運や、不条理に向けたれた非難ではないのだ。
少女が嘘偽りを言っているのではないということは彼には瞭然であり、この見た目だけでなく中身まで奇妙な少女に、王は笑みを零す。
「―――成程。まるで道化の如き有様だが、芯は通っている。」
王の皮肉めいた笑顔と言葉に、少女もつられて複雑に笑み返す。久しく目にした逸材。才能の卵。咲きかけの蕾に。王は少女を『少女』ではなく、一人の『個』として認識を改める。
「娘よ、名をなんと申す?」
名を聞かれるとはそういうことだ。その意味を察した少女は一度目を輝かせ、そうして自信に満ち溢れた声で応えた。
「“マキナ”です、偉大なる我が主君」
少し緊張した面持ちで更なる言葉を待つマキナ。その姿は、功名心に逸り野心に溢れたものとは違い、ただ純粋に、王との会話に恐縮しつつも喜び感動している―――まるで幼子か犬猫のような愛嬌で溢れていた。
ギルガメッシュがそんなマキナを見下ろす瞳には、幾らかの憂惧と憐憫が混じっていたのだった。
「―――マキナ。お前は生まれてくる時代を間違えたようだな。いずれ人類もこの域に到達するだろうが、百年か二百年――或いは千年先か。しかし、いつの世であろうとお前の存在は波乱の元となろう。」
またしてもの思いもよらない言葉に困惑の表情を浮かべるマキナ。ギルガメシュ王の言葉は、例えば神官や巫女の神託のように暗示めいている。その上で、ギルガメッシュはマキナへと命じるのだった。
「お前に金、銀、青銅、錫…あらゆる金属を配当する。以後、我の為だけに鉄を打ち、武具を拵えよ」
王の意図がどこにあるかはわからずとも、今はただ、それがどれほど幸運で栄誉ある命なのか。マキナは感動に胸を詰まらせ、身を打ち震わすのだった。
「はい…!―――主君の仰せのままに…!」
マキナが思わず零した笑顔は、彼女が貧相な身形をしていることなど忘れさせるほどに可憐だった。
何度目か、跪いて頭を垂れるマキナを数秒見つめた後、ギルガメッシュは工房を去っていったのだった。
空は藍色に染まり、その室内で唯一、炉の炎だけが忙しなく形を変え、静かに佇むマキナの影を揺るがしていた。
(…)
(2014/8/9)