つま先にくちづけ



「ペディキュア塗ってみたい」
「へえ。いいんじゃないですか」
 人を駄目にするクッションに埋まって駄目になりながら言った私に、永四郎は意外そうに頷いた。
「君がそんなこと言うの珍しいですね」
「きれいな色のを見つけたから」
 小さな小瓶に詰められたつややかな紫を見て、永四郎は薄く笑う。私がその色を選んだのは、当然これが永四郎の好きな色だからだ。それをきっとわかっている。
「やってあげますよ。貸しなさい」
 そう言って手のひらをこちらへと向ける永四郎に、しかし私はふるふると首を振った。
「私が塗りたいの」
「おや、君にできるんですか」
 言外に「不器用そうなのに」という意味合いを滲ませながら、永四郎は眉を少しばかり上げた。まあ、不慣れだということは認める。
 ――というか、そう言ったということは永四郎は塗り慣れているということだろうか。
「別に誰の爪も塗ったことなんてありませんよ。その目をやめなさい」
「……どんな目」
 永四郎の指がどこかの誰かの足先に触れる姿を想像した。それを一撃で看過されてちょっと気まずい。ごまかすように下唇に軽く歯を立てると、それもすぐにばれて「噛まない」と窘められる。言いながら伸ばされた指でそっと下唇を撫でられると、そこからぞわぞわと首の後ろの方に甘くしびれる感覚がする。
「ほら、塗りたいんでしょう?」
「うん……それじゃあ」
 うっかり小瓶の存在を忘れかけたところで、永四郎の声が私を現実に引き戻す。テーブルの上にぽつんと置き去りにされたそれを手にして、私は口を開いた。
「そこに座って、足こっちに置いてね」
「――――――は?」



 こんなにぽかんとした表情を浮かべた木手永四郎を見るのは初めてかもしれない。それが私の最初の感想だった。
「だから、足」
「何故です?」
「ペディキュア塗るからだけど……?」
「君がですよね?」
「うん。私が塗るよ」
「……君の爪に、ですよね?」
「永四郎の爪にだけど」
「えっ」
「えっ?」
 ここに至ってようやく互いの行き違いに気づいた私たちは、数秒黙ったまま見つめ合う。先に口を開いたのは永四郎だった。
「俺の足にそれを塗りたかったんですか?」
「うん」
「何故です」
「似合うかなあって」
「確かに似合うかもしれませんけどね、あの会話の流れなら普通君の爪に塗られる流れでしょ」
「でもこれ永四郎の好きな色だし」
「それならなおさら君は自分で塗りたがるでしょ。俺のこと大好きなんだから」
「それはそう」
 否定はしない。彼の言うように「永四郎の好きな色を身につけたい」というのは全くもってその通りなのだけれど、今回私が抱いた欲望は「このきれいな色で染められた永四郎のつま先を見てみたいなあ」だったので。
「そういう性的嗜好があるとは気づきませんでした」
「せい、っ」
「俺がソレを塗られているのを想像して興奮したんでしょう? 違いますか?」
「ちが……うとも言い切れないのかな……?」
 永四郎の前にひざまずく私の手のひらに永四郎が足を乗せて、一本ずつ丁寧に彼の爪が彩られていく。その様子を頭に描いてどきどきした。それを興奮の二文字で片付けるには、もう少し複雑な心境があったりするわけなのだけれど――まあ、うん。
「そもそもは永四郎の足首から色気がほとばしってるのがいけないと思うの」
「君がふしだらな視線で俺を見ているというのはわかりましたし別に君になら構いやしませんけど、俺のせいにされても困りますよ」
「ふしだら」
「ふしだらです。自覚しなさいよ」
 私はふしだらだったのか……。
 自覚していなかった己の不埒さに衝撃を受けていると、永四郎はやれやれとため息を漏らして「まあ別にそれはいいんですけどね」とフォローに回ってくれた。彼女がこんなふしだらな女でも構わないというのだから、心の広い彼氏である。
「大抵の男は構わないと思いますけどね」
「そうなの?」
「少なくとも俺はね。だから安心して俺に興奮してなさい」
 多分この先永四郎以外の誰にも「安心して興奮しろ」なんて言われることはないんだろうなあと思いながら、私はおとなしく頷いた。



「それで、何で君は俺の足首に興奮したんですか」
「そこ聞くの?」
「興味があるので」
 片手で眼鏡を上げながら、永四郎はわずかに身を乗り出した。眼鏡の奥の瞳が細められて、その目で見られると私は逆らおうという意思が消え失せてしまう。もとより私にそんなものがあるかどうかは怪しいところだ。
「……プールの授業があったでしょう?」
 授業内容によっては男子と女子の体育は分かれて行われるけど、その日のプールは両方まとめて放り込んでしまえという、半分遊び混じりの授業だった。少し歩けば海があるとはいえ、塩辛くない水で泳ぐのは嫌いじゃない。
 信じられないくらい冷たいシャワーに悲鳴を上げてプールサイドに逃げ込みながら、太陽の光ですっかり熱されたコンクリートで足の裏を焼かれる。ちょっとした拷問みたいな目に遭いながら、先ほど自分が通り抜けたシャワーの方へと視線をやった。

 ――あ。

 どこにいても目立つ――否、私の目が自動的に見つけ出す――男が、髪をしきりに気にしながらシャワーを通り抜けたところを目撃した。頭から水をかぶってなお、あの髪型が崩れないのだから流石だと思った。
 鍛え上げられた肉体を水滴がたどって、ぽたりと落ちる。ここからじゃはっきりとは見えないけれど、その様子を私は知っていた。
 引き締まったふくらはぎから足首に。逞しい肉体と比較すると彼の足は少しだけ小さい。気に入った靴を見つけて、サイズがない時には不機嫌になる。
 いつか「困ったら呼びなさいよ。どこにいたって一歩でたどり着いてあげますからね」なんて冗談めかして、でも本気の目をして囁いた彼の足から目が離せなかった。
 ――それからずっと、永四郎の足を見るたびに心臓がうるさくなる。



「というわけです……」
 なんだかんだすべてを白状させられて、語り終えた私は今更のようにじわじわと羞恥心にあぶられ始めていた。だっていざ言葉にしてみると、やっぱり恥ずかしい気がして。
「あの……永四郎……?」
 先ほどからずっと無言なのが逆に怖い。流石に引かれたらどうしよう……。
「プールの授業って。去年の夏じゃないですか。そこからずっと黙ってたってこと? ついさっきまで?」
 昨日ペディキュアを見つけた時までは私だってこんなことを言うつもりはなかったし、白状したあれこれだって誤算だった。
「不本意です」
「ご、ごめ……」
 ぎゅっと目を眇める永四郎を見て肩がはねた。やっぱり引かれたのだと後悔の渦にたたき込まれて――「そうではなくて」永四郎の言葉に顔を上げた。
「そうじゃなくて、気づかなかった俺自身が不本意です」
 きり、と下唇を噛みしめる永四郎は悔しそうに吐き捨てる。
「君が俺の足に興奮する性質だって知ってれば、もっとこう色々利用のしがいがあったじゃないですか……もったいないことさせないでくださいよ」
「うん……?」
 利用とは一体。その疑問を口に出さないだけの自制心は今の私も持っていた。
「まあいいです。君にとって俺の身体のパーツで気に入る部分は多い方がいいですからね」
「全部好きだよ」
「……君本当に俺のこと好きですねえ」
 はぁーや、と小さく呟いて伸ばされた手に、頬の下あたりを撫でられる。気持ちがいいのでうっとりと目を閉じた。しばらくおとなしく撫でられてから目を開けると、永四郎はしばらく何かを考え込むようにしてからスマートフォンを手に取った。
 画面をするすると撫でながら何かを確認して、ちらりと私に視線をよこす。
「海岸と古武術道場へ行く日は無理ですけど、次の週末ならいいですよ」
 ――海岸と古武術道場。その二つに共通するのはどちらも裸足になるということで、つまり永四郎が何を言いたいのかというと。
「いいの?」
「駄目なら言いません。嬉しい?」
「嬉しい」
「ならよかった」
 次の週末。永四郎のつま先が私の手によって色づく姿を想像して頬が熱くなる。やっぱり私の頭は永四郎が絡むと少しどうかしてしまうのだと思った。
 小さな小瓶は、きっとその日まで私の机の上でつややかな色をたたえている。
「……永四郎?」
 楽しみにしてるね、と口にしようとした私の両肩に、不意に力がかかる。言うまでもなくその力の正体は永四郎の両手で、そのまま後ろにぐっと押されてしまえば私にはなすすべもない。そのまま天井および私を見下ろす永四郎の顔を見つめることになる。
「恋人の足に興奮するのが、自分だけだと思わない方がいい」
 するりとふくらはぎを撫でる感触に、喉の奥からおかしな声が漏れた。永四郎の指先は私のふくらはぎから足首を経由して、足の甲、そして爪の先までたどり着いた。
「せっかく買ってきたんでしょう? なら今日は君が」
「絶対ペディキュア塗るだけじゃ済まない顔してる……」
「察しが良くて何よりです」

 ――いいですね?

 許しを請うのではなくただの確認事項だ。
 しかしながら私がそれに抵抗するはずがないということを、私も永四郎もよくわかっていた。
 かくして私の手に入れた紫色は、予定とは少し違った形で使用されることになったのだった。

2021/03/21 up
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