キスの日の木手永四郎


「今日ね、キスの日なんだって」
 そう言ってもじもじしている彼女に対しての彼氏の反応が
「はあ」
 の一言だったとしても、めげない私は偉いと思う。
 隙あらば永四郎といちゃいちゃしたい私は、聞きかじった知識を口実にすぐに永四郎の元へと飛んでいった。ソファにもたれてファッション雑誌をめくっていた永四郎は、一人興奮する私をよそに眼鏡を上げて軽く首をかしげる。勝手に隣に座り込んでも文句は言われなかった。いける。と私は確信する。
「キスの日だからキスをするものだと思う」
「じゃあキスの日以外はキスをしないんですか?」
「それはそれでするけど!」
 むしろ三百六十五日したい。
「何が言いたいんです?」
「何がってそんなの、ねえ。ほら」
 言わなくたって、とかなんとか。もちゃもちゃと口ごもっていたら手招きされた。縮地法もかくやというスピードですぐ側まで近づいた私に、永四郎は表情ひとつ変えないままで手をのばす。
 服の襟の辺りを軽く引かれて、端正な顔が近づいて、それで。
「……」
 目を瞑る時間すらない程の短い時間、永四郎の唇が私のそれに触れて離れた。
 キスをされた、のだと思う。多分。ものすごくあっさりしていたけど。キスの日だよってはしゃぐ私の望みを叶えてくれたんだと思う。目的は達成された。されたんだけども。
「なんですか」
「何でもな……くはない」
「でしょうね。そんな顔してますよ。それで、どうしたの」
 手にしていた雑誌はいつの間にかきちんとページが閉じられて、傍らのローテーブルの上に置かれている。私に向き合う永四郎の表情からは、彼が何を考えているのかいまいち読み取れない。
「キスの日なんですよね?」
「うん」
「したじゃないですか」
「した、けど」
 例え一秒に満たないようなキスだとしても、永四郎に触れられるのは嬉しい。だけどどうにもしっくりこないのは、私が贅沢になったのかそれとも。
「キスの日だからキスがしたかったんでしょう? なら目的は達成した筈ですよ」
 つんと澄まして私を見据える永四郎は、もう一度眼鏡を指の第二関節の辺りで上げる。引き結ばれた唇が私に触れる感触を思い出す。少し厚くて小さめのそれが、頬や自身の唇に振れるたびに私は何も考えられなくなって、それで。
「……永四郎とキスがしたくて」
 私の言葉に、永四郎が少しだけ目を見開いた。ずっと見つめていなければわからない程、ほんの僅かに。
「ええ……それで?」
「キスの日だっていえばいけるかなって思ったんだけど……」
「いけるかなって何」
 ふふ、と唇の間から息を漏らすようにして永四郎が笑う。そうやって笑う時の永四郎は、目元が緩んでとても優しい顔つきになる。いつもだって優しくはしてくれるけど、それよりもずっと。
「おいで」
 さっきの手招きよりもずっと甘ったるい声で、隣に座っているのに更に距離を詰められる。首のうしろに指先が触れて、そのままぐっと引き寄せられた。指先が髪の毛の生え際辺りをくすぐる感覚に首をすくめると、永四郎はさっきよりもずっと時間をかけて顔を近づける。
「えいしろ……」
 名前を呼ぶ唇を、指の腹でなぞられた。眼鏡越しの瞳がとろりと溶けているかのようだった。
「ん、っ」
 柔らかな唇が触れる。角度を変えて何度も。触れているだけなのは同じなのに、さっきよりずっと気持ちが良かった。いつの間にか背中に回されていた腕が、ぐっと私を抱き寄せる。もっとずっとくっつきたくて、身体の前で縮こまっていた腕を永四郎を抱き寄せるために使う。首筋に指の先を伸ばすと、少し長めの髪に触れた。
 整髪料の匂いが微かに香る。呼吸もうまくできなかった私は、永四郎によっていつの間にか息を継ぐことができる身体にされていた。
「、は……」
 最後に下唇を舌先で舐められて、思わず身を震わせた。それを見て笑った永四郎は、ようやく私を解放する。
「どうですか?」
 どうですかも何も。
「腰がくだけた……」
「それは何より」
 何よりなわけあるか、とかなんとか色々言いたいこととか聞きたいことがあるけれど、今はそれどころではない。力が抜けてぐんにゃりとした私を抱きかかえながら、永四郎は先程までのつんとした空気をすっかり霧散させていた。
「さっきのが『キスの日だから』したキスで、今のは俺がしたいからしたキスですけど」
 どっちがよかった?
 そんな、わかりきったことを永四郎は言う。
「ちなみに君がしたいって改めてねだった時のキスもありますけど、どうします?」
「そんな、そんなの」
「そんなの?」
「………………うう」
 腰は砕けているし身体の力は抜けているし、最初からこのつもりだったんだなと今更悟って悔しいし、でも。
「永四郎とキスがしたい……」
「素直な人は好きですよ」
 永四郎が満足そうだから、もう何でもいいかと思ってしまったのである。

2021/05/23 up
BACK
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -