卒業はさよならの合図じゃない


 私はめそめそと泣いていた。
 ひとりふたりとクラスメイトが減っていく教室で、はらはらと涙をこぼして泣いていた。
「いい加減泣きやんだらどうなんです」
 そんな私の頭上から、呆れた声が降ってくる。視線を上げた先には木手永四郎――私の想い人が、こちらを見下ろして眉をしかめていた。
 開け放たれた窓から吹き込む風は、三月だというのに驚くほど暖かくて、さっきからずっとカーテンをはためかせている。永四郎は既に上着を脱いで脇に抱え、黒のワイシャツの袖をまくり上げて腕を露出させていた。寒さというものから縁遠いこの季節、いつもの永四郎ならとっくに薄着でいるはずだ。それがワイシャツだけでなく白の上着までも身につけていた理由はひとつしかない。
 ――今日が、卒業式だからだ。
「う……」
「今度はなんです」
「実感しちゃって」
「何を」
「卒業するんだってことを……」
「そうですね。卒業おめでとうございます。俺もですけど」
「永四郎もおめでと……」
「ありがとうございます。それでなんでまた泣くの」
「卒業がさみしい……」
「卒業できないよりはいいでしょ」
「そうだけど!」
 例え一年だとしても、永四郎に置いていかれるなんてたまったものじゃない。想像しただけで一瞬涙を止めた私を見て、永四郎は「それでよし」と納得したみたいにひとつ頷く。
「ボタンはもうあげました」
 永四郎が抱えている白の上着は、一つボタンが足りていない。その一つは、さっきからずっと私のポケットの中に厳重にしまわれている。家に帰るまで、いや今後の私の人生においてなくすわけにはいかないのだ。
「大げさな」
 再度の溜息にもめげず、私はそこに永四郎のボタンがあることをもう一度しっかりと確認した。つるりとした硬い感触。指先で撫でていると、私の意思とは関係なく再び涙腺が緩みだす。
「あとジャージも欲しいんでしたっけ? それもお望みならあげます」
「もらう……」
 海外遠征に着ていくことはない比嘉中ジャージは、それでもずっと私にとって木手永四郎の象徴だ。
「ボタンをあげてジャージをあげて、形に残る思い出はもう十分でしょう? あとは何ですか? 誰もいない教室でのキスでもしましょうか? 形に残らない思い出もどうせ欲しいでしょ?」
 それはそれでしてほしいけど、私がこんなになっているにも関わらず平然としている永四郎が切ない。こういう時、もう少し感傷に浸ったりだとか、そういう気分になったりとかしないものだろうか。
「感慨深いのは事実ですよ。この三年間、色々ありすぎるくらいにありましたからね」
 私の知らない思い出も、私の知っている思い出も、全部まとめて飲み込んで永四郎は先に進む。多分私のことも荷物みたいに軽々と抱えながら。
 再びぐすぐすと鼻を鳴らし始める私を見て、永四郎はひとつ深く息を吸って。

「そもそもね――俺たち高校一緒でしょ」
「そうだけど……!」

 今生の別れじゃあるまいし。
 今日何度目かの溜息が頭上から降ってくる。
 わかっている。春から私と永四郎は同じ高校に通うことになっていることも、遠征に出る時は頻繁に連絡をくれることも、今までの生活と比べて変わるものなんてほんのわずかだということも。
 それでも感傷に浸りすぎてぐずぐずになってしまう私を、厄介だと呆れながら永四郎はこうして相手をしてくれているのだ。面倒見がいいことこの上ない。
「流石にそろそろ飽きたんですけど」
「もうちょっとだけ浸らせて」
 思い出のありすぎる教室の空気を覚えていようと、最後に私はしんみりと目をつむる。頭上の溜息は、もう何度目か数えるのをやめた。
「わかりました。好きなだけ浸ってなさいよ。俺は――」
 ――形に残らない思い出をもらうことにします。
 その言葉の意味を、私が理解するよりも早く。私が思わず目を開けてしまうよりも早く。
 永四郎の唇は「形に残らない思い出」を私から奪っていった。

2021/03/21 up
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