「ナマエ、婚約、おめでとう」


15の誕生日を迎えた日は、青空の広がるよく晴れた日だった。庭にできた林檎をそうっと撫でると、ふと後ろから柔和な声が聞こえわたしは振り返る。「あ、おばさん」「聞いたよ、商人の男性に婚約を申し込まれたんだって?まだ若いのに、色気づいちゃって」
そんなこと。否定しようとして、やめた。ここへ来てからずっと面倒を見てくれていたおばさんに、まずは感謝の気持ちを伝えようと思ったから。春先の風は冷たく、相変わらず寒さに苦手なわたしはひやりとした首を竦めてしまう。けれど温かな日差しに何だか心が穏やかになり、ふと顔を上げ空を仰いだ。ローゼの壁は高く聳え、破られることのない平和に感嘆の息が漏れる。

冬を迎えた頃。開拓地に赴いてきたウォール・ローゼ内に住む男性に、婚約を申し込まれた。それは本当に突然のことで、開拓地で生活を続けていたわたしはローゼ内の住居へと移ることとなる。たくさん悩んだ。まだ成人すらしていないわたしが、婚約などしていいのだろうか、長く生活していた場所を去り、安全で快適なところへ行っていいのだろうか。悩んで悩んで、結局わたしは婚約の話を受け入れた。何事にも困らない、平和な環境へ移ることを選んだのだ。
開拓地を去る日、乾いた地面を踏みしめると砂の音が耳をついた。雪は降っていなかった。けれど、あの別れの日と同じ、鉛色の空がわたしを見下ろしている。痛いほどの寒さが、体温を奪っていく。

「相変わらず聞き分けの悪い奴だ」

あれから三年の月日が流れた。わたしは成長し、一人で生きていけるようになった。そして大人になるにつれて、幼い頃には気づかなかった物まで見えてくるようになった。美しい物だけではない、世界の汚さや、恐ろしさまで全て。けれど、もう聞き分けの悪い子どもではないのだ、そんなものを見ても駄々を捏ねたりしない。聞き分けが悪いと言ったあのときの彼の言葉は、もう今のわたしに向けられてはいないのだ。


「ナマエ?」


ローゼの壁から視線を落とすと、おばさんが不思議そうにわたしを呼んだ。その声に笑顔を作り小首を傾げてみせると、どうしたの、と言いたげにわたしを見やる。何でもないの、大丈夫。無言で投げかけられた質問に答えれば、おばさんは安心したように微笑んだ。
何を感傷的になっているのだろう。溜息をつき再び林檎に触れると、まだ生きていた頃の母の言葉が蘇ってきた。幸せなはずなのに気分が落ち込むのは、きっと何かが邪魔をしているせいかもね、と。何が邪魔をしているのだ、優しい男性に婚約を申し込まれて、安全で快適なローゼの住居へ移住できて、女としてこれほどまでの幸せはないのに。それでも何となく気分が上がらないのは、現実味のないこの平和のせいなのだろうか。


「…あれ?」


馬鹿馬鹿しい。考えることが面倒になり踵を返そうとすると、小さな違和感を感じてわたしは再び顔を上げた。壁から、煙が立ち昇っている。憲兵団が訓練でもしているのだろうか。けれど、あんな門のある場所で、しかも煙を上げるほどの訓練をするなんて話は、「う、わっ…」その瞬間、突然響き渡った轟音とけたたましく鳴り始める警鐘に思わず耳を塞ぐ。


「逃げろ!壁が破られた!」


いま、何が。耳に残る轟音の名残に目眩がする。状況を把握できていないのはわたしだけではないようで、後ろに屈み込んだおばさんも訳が分からないという顔でわたしを見上げた。その肩を支えながら、未だ鳴り響いている警鐘にどくりと心臓が音を立てるのが分かる。何かが起こっていることだけは、回らない頭で理解ができた。でも一体なにが、「巨人が…巨人が来た」


「おばさん?」
「巨人が…街の中に…」


支えた肩が、ガクガクと震え始める。血の気が引き蒼白になった顔が、わたしをゆっくりと仰いだ。指差された先、見晴らしの良いこの場所から見える、ローゼに守られているはずの街並みを振り返った。

そこに見たものは、ウォール・ローゼに大きく空いた穴。そこからゆっくりと歩み入る奇妙な人型、そして逃げ惑う人々。建物は破壊され、炎が燃え盛り、煙が立ち昇る。その中からは数多の悲鳴が聞こえては途切れ、また別の悲鳴が聞こえては途切れを繰り返す。目を覆うことすら、耳を塞ぐことすら出来なかった。自分は夢でも見ているのではないか、こんなことあるはずがない。ウォール・ローゼが破られるなんて、そんなこと。これじゃまるで。


「ナマエ!」
「ごめんおばさん、街には、街にはわたしの婚約したひとがいるの。わたし、迎えに行かなきゃ、はやく」


これじゃまるで、五年前と同じじゃないか。
ふらりと立ち上がったわたしをおばさんが制する。その手を跳ね除け駆け出すと、再び轟音が響き街の時計台が巨人の手によって破壊された。ああ早く、早く迎えに行かなきゃ、あのひとが。
どくりと心臓が脈打つ。五年前のあの光景が蘇る。巨人の醜い口に消えていった、母の姿を思い出す。たすけて、たすけて、誰かあのひとをたすけて。

橋を渡り、古ぼけた仕立屋の角を曲がる。そうして少し歩いたら、笑顔のあのひとがいつものように果物を売っていて、わたしを見つけて名前を呼んで。大丈夫、きっと無事だ。ここら辺はまだ建物も崩されていないし、巨人の姿も見当たらない。だから、きっと、


「は……」


ぐちゃ、と、嫌な粘着音が聞こえた。それと同時に何か硬いものが砕ける音がし、薄気味悪い叫び声が上がる。
これは、なに。
古ぼけた仕立屋さんを曲がって、少し歩く。そうしたらいつもの果物屋さんがあって、あのひとがいて、笑ってわたしの名前を呼んで。それなのに、どうして建物がないのだろう。どうして人が一人もいないのだろう。どうして、巨人が、ここに、

ふと、綺麗な夕焼けを思い出した。そう確かあの日は、お菓子がおいしく焼けたから、ミカサにあげようと思って楽しみにしていたんだった。ミカサはわたしの作るお菓子を好きだと言ってくれるから、すぐにでも食べてもらいたくて、綺麗に包んで家を飛び出そうとして。


「たす、け、て」


ミカサにだけあげるんじゃあんまりだからってお母さんが笑って、アルミンと、そして不服だけどエレンの分も作ってくれて。たくさんのお菓子が入ったバスケットを抱え、見送るお母さんに手を振ろうとしたら、いきなり轟音が響いて。驚いて目を閉じたらお母さんがわたしを庇ってくれたのがわかった。そうしてしばらくしてから目を開いたら、お母さんの肩越しに巨人が笑ってて、一つ瞬いたら、お母さんが、巨人、に

骨の砕ける音と、奇妙な形をした唇に濡れた血。そこから先は、覚えていない。気づいたら憲兵団の人がわたしを抱えてて、いつの間にか船に乗せられていて、そこでミカサたちと会って。
あの夕焼けの日は、地獄だった。あの醜い生き物に、全てが奪われた。醜い、醜い、あんな奴ら消えてしまえばいい、そう思ったのに。恨むだけならいくらでも出来た。けどわたしは、あまりにも無力すぎたのだ。
そうしてわたしたちだけになった。数年後、彼らがわたしの元を去って、本当に一人になった。それでも成長し、世界の汚さを知った。だからもう、一人でも生きていけるはず、なのに。一人ではこんなに小さくて非力で、ここから逃げ出すことすらもできない。震えて立ち上がれなくて、今、わたしは巨人の手の中に、捉えられようとしている。
いやだ、いやだ。助けて、だれか。こわい、死にたくない。だれか、


「エレン…エレン……、エレン…っ!!」


エレン、こわいよ、助けて。
巨人の指が、わたしの腕に食い込む。めり、と異様な音がしたと思えば突如として走る激痛。恐怖でそれを見下ろせば、皮膚が裂け血が滴っている。離せ、そう言ってやりたいのに、声が出ない。痛みさえも遠のき、目の前に広がった巨人の口に吐き気がした。
もうだめだ。そう思った途端、じわりと涙が出た。こんなことなら、わたしもあのひとと一緒に逝きたかった。優しいあのひとと一緒に。寂しい、一人は嫌よ。どうしてみんなわたしを置いていってしまうの。

巨人の口に飲まれる瞬間、顔を背けたくなるような悪臭が鼻をついた。血の臭い、そして肉が腐ったような臭い。わたしの前にも、もうたくさんの人間が食べられていたのだろう。その中には、優しかったあのひともいる。それなら、もう食べられてしまった方がまし、なのだろうか。一人で生きていくよりもずっといい。だったら、もう早く、


「ナマエ」


早くあのひとのところへ。

目を閉じると、優しい笑顔が浮かんだ。ああ、あのひとが待ってる。わたしを呼んでる。そう思ったら嬉しくて涙がこぼれた。頬を滑ったそれは、ぽたりと巨人の指に落ちる。わたしは幸せ者だ、最期にあのひとの笑顔が見られるなんて。
そのとき、わたしを呼ぶ声が聞こえた気がした。あのひとの声じゃない、彼はもっと優しい声でわたしを呼ぶもの。わたしは早くあのひとの元へ行きたいのに、呼び止めたのは一体だれ?

目を開けることがひどく気怠かった。それでも最期に名前を呼んだひとの顔くらいは見ておこうと瞼を上げると、わたしの身体を掴む巨人の指に鋭い刃物が刺さっているのが見えた。光る刃面に意識が清明になってきて、再びずきりと腕が痛み出す。すぅ、と身体の体温が下がり恐怖感が蘇ってきた。やだ、こわい。刃物が突き刺さり緩んだ巨人の指から逃れようともがく。身体に力なんか入る訳がなかったけれど、それでももがいた。巨人に触れられていることが、ひどく不快だった。


「ナマエ!」


もう一度誰かがわたしを呼んだ。その声を追おうと視界を巡らせると、急に身体が宙に浮いたような感覚を覚え、巨人の手から逃れることができたんだと悟る。地面へと急降下する身体。何かに掴まろうと手を伸ばしたけれど、視界にあるのは巨人だけ。あれに掴まり命が助かるくらいなら、いっそのことこのまま落ちた方がましだ。
わたしを呼んだのは、一体だれだったのだろう。巨人に食べられそうになったわたしを救ってくれたひとの顔を、やっぱり最期に見ておけばよかった。
もう一度目を閉じると、今度はあの三人の顔が浮かんだ。ミカサとアルミンが笑ってる。相変わらずエレンは仏頂面だったけれど、それすらも懐かしくて頬が緩んだ。ああ、会いたい、三人に会えたらよかった。けれど、きっとどこかで生きてる。あのひとたちは強いから。

戻りもしない過去へと思いを巡らせると、突然ふわりと身体が浮かんだ。そのまま猛烈な速さで急上昇する身体に、驚いて目を見開く。走る光景と、遠くなっていく地面。そしてわたしの身体を抱きかかえた腕に、何故だかひどく懐かしい感覚に襲われた。このひとは、だれ?
汚れた服と、少しだけ日焼けした首筋。その先をゆっくりなぞると、見覚えのある綺麗な翠の瞳が映った。その瞬間、体内に血が巡り訳も分からず涙が溢れてくる。皮膚を割かれた腕が、ゆっくりと伸びた。痛みも恐怖すらも一瞬遠ざかり、まだ幼さの残るその頬についた泥を、そっと拭う。

どうかこれが夢ではありませんように、祈ることなんてやめたはずなのに、無意識に心の底からそう祈っていた。







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