「おーい真ちゃん!いつまで寝てんだよ!早く朝飯食わないと宮地サンに殴られんぞ!」
「……、今、何時だ」
「もう七時半だよ!起きろ!」


身体が、重い。どうにも気怠さが残る身体をやっとの思いで起こすと、景気良く窓を開けた高尾がやれやれというように溜息をついたのが聞こえた。枕元に置いてあった眼鏡を掛けると、背中を思いきり叩かれ強烈な痛みが走る。おかげで目が覚めたのはいいが、高尾を張り倒してやりたい衝動に駆られた。


「早く食堂来いよ。急がねーと出発の時間だぜ」
「……ああ」


ったく、毎日毎日お前を起こしに来てやってる俺の身にもなってみろよ。ブツブツと小言を言いながら部屋を出ていく高尾を見送ると、開け放たれたままの窓から静かに風が吹き込んできた。初めてここへ来た日よりも、幾分風が涼しくなったような気がする。気候の変化を感じ取れるくらい、この土地へいたのかと思うと何故か不思議な感じがした。
長かった二週間が、ようやく終わりを告げる。


***



「あー今日もカレーかよー…。もう俺しばらくカレーいらねーわ…」
「…高尾、何を騒いでいるのだ」
「あ、やっと来た。早く朝飯食えよ。ほら、コレお前の分」


食堂へ着くと、何やら重々しい空気が漂っていて青ざめながら口を動かす先輩たちの姿が目に入った。何事かと入り口に立ち尽くしていた俺を見つけた高尾が、手招きをしてテーブルの上にことりと皿を置く。その中身を覗いてみると、ところどころ黒ずんでいるカレーらしきものが盛られていた。


「…なんだ、これは」
「は?何だって、朝飯だろ。いつも食べてたじゃん」
「朝食…、」


いつも。その言葉にふと目を見張る。いつも、食べていたか?ここへ来て、こんなに飽きるほどカレーを食べていた気が、しない。…いかん、寝起きで可笑しくなっているのだろうか。眉間に手を充て席へと座ると、訳の分からないツンとした臭いが鼻をついた。このカレーは、何故こんなに酸味の効いた臭いがするのだ。恐る恐る口に運ぶと、やはり酸味の効いた味と臭いが口内を満たし思わず頭痛がする。とても食べられるものじゃないと匙を置くと、唇を真っ青にしながら呻いている高尾が俺を小突いてきた。


「おい…ふざけんな何でスプーン置いてんだよ真ちゃん…」
「……だから、その呼び方はやめろと何度も言って、」
「は?俺ずっと真ちゃんって呼んでんじゃん、なに今更」


どうしちゃったんだよ、お前。訳が分からないというように顔を上げた高尾を思わず振り返る。その声に気付いたのか、キャプテンや宮地先輩までもが俺に視線を向けてきて、何ともいたたまれない気持ちになった。
本当に、俺はどうしたというのだ。確かに高尾はずっとあの呼び方だ。不服ではあるが、注意しても聞く耳を持たないためそのまま呼ばせていたことは確かで、今更それにとやかく言う気もなかった。なのに、俺は何で。
黙ったままの俺に首を傾げ、再びカレーらしきものと向き合う高尾から目を離し、食堂の壁時計を仰ぐ。何か、よく分からない感情に襲われた。言葉にこそ表せないものの、変に渦巻くような、重たい感覚。これは一体、何だ?

その不可解な感覚の正体を掴めぬまま、ただ時間だけが過ぎる。旅館を経つ時刻になったのは本当にあっという間で、宮地先輩の怒号に急かされながら俺は送迎バスに乗り込む列へと並んだ。
もう八月が終わり秋を目前にしているというのに、照りつける日差しは強くじとりと汗が滲む。バスと排気ガスと混ざり合った何ともいえないむっとした空気が肺に流れ込んできて、不覚にも顔をしかめる。八方を山と海に塞がれているというのに、この土地は相変わらず暑さが厳しい。溜息をつきながらバスに乗り込むと、運転席の向こうの窓から波打ち際に反射した日の光がちかりと瞬く。


「おー、真ちゃんこっちこっちー」


バスの真ん中あたりの座席で、俺に気付いた高尾が呑気に手を振ってくる。手荷物とジャージの上着だけ持ち、高尾に退くよう言いつけ窓際の席に腰を降ろすと、溜息をつきながら奴は勢い良く隣の席に座った。


「はー、長かったな二週間。明日からまた学校とか本当信じらんねー」
「…ああ」
「なぁ、本当どうしちゃったわけ?今日朝からずっとそんな調子じゃんお前」


言いながら肩を小突く高尾を無視し、窓の外に見える砂浜を見つめる。自分でも分からないから考えているのではないか、馬鹿め。
しかし、どうにも頭が回らずぼんやりとしながら座席の肘掛へともたれ掛かる。ふと寒気がして顔を上げると、どうやら空調が効きすぎているらしくバスの通路を歩いていた宮地先輩が鼻をぐずらせているのが見えた。上着を持ち込んでおいて正解だと溜息をつき袖を通す。すると、ジャージの襟からふと甘やかな匂いがして思わず手を止めた。
香水のようなきつい香りでもない。洗剤?いや、しかし合宿中に俺はこんな匂いの洗剤は使っていない。じゃあ何故、俺のジャージからこんな甘やかな匂いがするのか。訳が分からず着たばかりのそれを脱ごうとすると、ポケットに何か固いものが触れた。不思議に思いそっと取り出すと、透明の小瓶にさらさらとした小粒の結晶が入っているのが見える。これは…砂糖?何故こんなものがポケットの中に、


「真ちゃん、なにそれ」
「……高尾、俺は合宿中、いつも通りに過ごしていたか?」
「あ?普通に練習して、不味いメシ食って、俺がチャリでお前乗っけて買い出しとか行ってただろ。それがどうしたんだよ」


そうだ。この二週間、俺は高尾の言う通り普通に過ごしていたはずだ。それ以外に何があると言うのだ。だが、心にどうも虚無感がある。この不可解に空いた穴は、何故なのか。長かった合宿を終えるという安堵からなのか、それとも。
高尾、俺は、何か忘れているような気がするのだよ。掌の中の小瓶を見つめながら呟くと、は?と素っ頓狂な声を出した高尾はしばらく何かを考え込んだ後おかしそうに笑った。


「何に悩んでんのか知らねーけど、幽霊でも見たんじゃね?真ちゃん」
「…幽霊、」
「そっ幽霊。あそこの旅館、もう使われてないんだし、こんな田舎じゃ何か出そうじゃん」


幽霊、か。
そうか、そうだな。きっと俺は、見えなくていいものを見たのだ。それが記憶にあるわけではないが、この訳の分からない虚無感や、いつの間にかポケットへと入り込んでいた砂糖は、恐らくその幽霊とやらの仕業だろう。そう考えれば、こんなに悩む必要もない。悩んでいる暇などないのだ。季節はもう秋を目の前にしている。あと数ヶ月もすれば、冬の大会だ。余計な雑念は、練習の邪魔でしかない。

海と山に囲まれた景色が、走り出したバスに流れていく。あの砂浜で走り込みをした朝も、あの山で休憩した午後も、傾いた商店で買い出しをした休日も、東京へ帰れば過ぎ去ったこととなる。あんなこともあったと、また思い出し笑い合うには、余りにも酷な日々だったとぼんやり思った。東京へと帰ったら、まずお汁粉を飲み疲れが溜まった身体を休めよう。襲ってくる眠気に顔を沈めると、襟元からあの甘やかな匂いがふわりと鼻をくすぐった。この香りの正体も、眠気の中ではもうどうでも良かった。ポケットの中で指先に触れた小瓶は、その幽霊とやらに貰ったものとして部屋にでも飾っておくか。いつか、おは朝でラッキーアイテムとして取り上げられるかも、しれない。
霞んでいく視界に、古ぼけたガードレールが見えた。スピードを上げるバスにそれは瞬く間に見えなくなったが、何だかあの景色が懐かしく停止した思考の中ふと笑みが零れた。
どうしようもない眠気に身体がどんどん重くなり、瞼が落ちる。遠退いていく意識の中で、真ちゃん、と、誰かが俺を呼んだような気がした。















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