合宿最後の練習は、陽が橙に染まる頃に終わりを告げた。明日は朝早くにここを発つからと、中谷監督が配慮して組んだスケジュールだ。長かった合宿期間の練習も今日で終わる。感慨深いものはあったが余りにも呆気なく、解放感など感じることもなかった。明後日にはどうせ普段通り学校へ行き、部活がある。そしてあっという間に冬の大会だ。余韻に浸る暇すら与えられず、俺たちは東京へと帰る。そんなものだ。頭では理解していても、やはりこの土地に愛着というものがある以上、色々と思うことはある。夕食の後、規則正しく揺れる壁時計の針をぼんやりと見つめながら頬杖をつくと、隣に座っていた高尾が洗い物をするなまえに駆け寄り、何やら小さく畳まれた紙を差し出した。


「なまえちゃん、これ俺のアドレス。東京帰ってもときどき連絡できるように教えとくわ!」
「わ、いいの高尾くん?ありがとうー!」
「いいって!せっかく仲良くなったんだし、また遊ぼーぜ!」


……あいつは、何を渡したのだ。
聞こえてきた会話の内容に呆気に取られ二人を見ると、その視線に気づいたのか高尾がニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら振り返る。一方なまえは、高尾から渡されたメモを開き嬉しそうに緩んだ顔でいた。あの馬鹿二人は何をしているのだ、というかそもそも高尾、お前はアドレスなど渡してどういうつもりだ。高尾の突拍子もない行動に思わず立ち上がると、ふと我に返ったようになまえが俺を振り返った。


「…高尾、お前は一体何を、」
「えー?アドレス渡しただけだけど?どしたの真ちゃんそんな怖い顔して。怒ってんの?」
「………怒ってなど、いない」


へえー?とニヤニヤ笑いながらわざとらしく口元を抑える高尾を思わず殴りたくなったが、目の前になまえがいたためどうにか抑える。完全にからかわれている、高尾の勘に障る笑い顔に腹立たしさが募るが、俺が奴に文句を言う理由が見つからず閉口する。アドレスを渡すくらい、誰にでもすることだ。それは分かるが、よりにもよってなまえに渡すとは…。しかし、それで俺がとやかく言える訳でもない。だが、この腹立たしさは何だ。
何故だか無性に苛立ってきてそのまま椅子を離れ、目を丸くしているなまえの手首を掴み歩き出す。慌てたように俺を引き止めるなまえの声を無視し黙々と玄関へ向かっていると、後ろから高尾の馬鹿みたいに陽気な声が追いかけてきた。


「なまえちゃーん、後片付けは俺がやっとくから気にすんなー!明日見送りに来いよー!」
「た、高尾くん!ごめんね、ありがとう…!」


どうせ後ろで高尾は面白がりながら手でも振っているのだろう。俺に腕を引かれながらよたよたと歩くなまえが首だけ振り返りながら、掴んでいない方の手を小さくはためかせている。何だかそれすらも妙に腹立たしく、思わず手首を握った手に力を込めると、「ちょっ真ちゃん待って。いてて」と困ったような声が聞こえ仕方なく立ち止まってやる。


「突然どうしたの?真ちゃん」
「……何でもないのだよ。俺のことを気にする前にさっさと歩け」
「なにそれ。変なの」


首を傾げながら旅館の門を潜るなまえの背中を、珍しく俺が歩いて追いかける。ぼんやりとした月明かりは、街灯もなく相変わらず暗いこの帰り道の頼りになる。目を離せばまた何かにつまずくのではないかと懸念してなまえの隣に並ぶと、俺を見上げたなまえは穏やかに微笑み髪を耳へと掛けながら俺の名前を呼んだ。


「真ちゃん、二週間楽しかった。色々迷惑かけちゃってごめんね」
「…突然何なのだよ」
「もう会えなくなっちゃうし、最後に言っておこうと思って」


短い間だったけど、本当にありがとう。
ゆっくりとした足音がふと止まり、それに振り返りるとなまえは少しだけ寂しそうに眉根を寄せながら俺を見つめた。小さく呟かれた、けれど凛としたその声に、再びここを離れるという名残惜しさが蘇る。踵を返し立ち止まっているなまえと歩み寄れば、笑顔を消し不思議そうに俺を見る視線とぶつかる。真っ直ぐなこの眼差しは、相変わらず苦手だ。しかし今ではそれが心地良くもあり、同時にず目線を逸らしたくないと、そんな思いまでもが湧いてくる。


「…また、会いにくればいい」
「え?」
「冬に、東京で大会がある。それを見に来ればいい。何かあれば、高尾に連絡すれば俺の耳にも入る。別に、これが最後ではないだろう」


今生の別れではないのだ。ただ少しだけ距離が離れているだけで、またいつでも会える。半ば自分へと言い聞かすように、そんなことを思った。そうでもしないと、余計に別れが惜しくなるから。
驚いた表情を見せたなまえの髪をそっと撫でると、くすぐったそうに目を細めそれから照れたように俯く姿が映る。むず痒いような感覚と、少しだけ大きく跳ねた心臓。思わずその手を引き抱きとめてしまいたかった。
好き、なんだ。俺は、こいつが。初めは疎ましく感じていたなまえの笑顔を、声を、心地良いと感じたのは一体いつからだっただろう。触れたいと望んだのは、知らずうちにこの思いが大きくなっていたから、だから。


「……真ちゃん、ありがとう」
「礼などいらん。お前はまた俺に会いに来て、お汁粉を作ればいいのだ。それまでにまた上達していろ」
「うん、」


ありがとう。
礼など、いらんと言うのに。涙声で呟かれたその言葉を黙って聞き、髪を撫でていた手をそっと離す。代わりにその小さな手を取ってやると、ひやりとした体温が肌へと伝わってきた。驚かせてしまったのか、強張った指先から緊張が伝わってきて、思わず笑みが零れる。そのまま手を引いて歩き出すと、躊躇いがちに絡められる指。小さく震えているそれをを逃がすまいと力を込めれば、落ち着かない様子でなまえの指先が俺の中指辺りをそろりと辿った。
好きだ、改めてそう実感すると、不意に顔に熱が集まる。こんなことを何度も思うなんて、そもそも俺らしくないのだ。こいつがこう素直な反応を返してくるのが悪い。


「…大会、頑張ってね。でも、あんまり無理はしないでね」
「お前こそ身体をもっと気遣え。…それと、高尾に連絡するのはいいが、そのつど俺に報告させるよう伝えておけ」
「じゃあ真ちゃんも連絡先、教えてくれればいいのに」
「お前が大会の応援に来たら教えてやらないこともない」


素直じゃないなあ、真ちゃんは。 お前は一言余計なのだよ。 真ちゃんは一言足りないよ。
あのカーブミラーが、見えてくる。他愛もない会話をしているだけなのに、帰り道はとても短く感じた。俺と同じことを思ったのか、ふと黙り込んだなまえが繋がれた手に力を込めた。振り返ると、いつもの満面の笑みで俺を見上げ、「真ちゃん、」と呼ぶ姿がそこにあった。不意に視界が霞み、それを悟られまいと唇を引き結ぶと、なまえは俺の髪をするりと撫で目を細めた。


「送ってくれてありがとう。気をつけて帰ってね、明日寝坊しちゃだめだよ」
「見送りには、必ず来い」
「…うん」


お互いの熱を確かめるように、指先を辿りながら離れていく手。もう一つの体温をなくした掌は、夏なのにとても肌寒く感じた。触れたいと湧き上がる感情を押し込め、強く拳を握り締める。そうでもしないと、考えるより先に身体が動いてしまいそうだったから。
俺を見つめるなまえの眼差しを再び見たあと、踵を返しゆっくりと歩き出す。二人で歩いてきた道も、今日で最後だ。しかし、また来ればいい。ここへ来て、この道をこいつと一緒に歩けばいいのだ。また、いつでも会えるのだから。
足を止め振り返ると、暗がりの中でなまえが大きく手を振っている。まるで子どものように懸命に、いつもしてくれていたように。明日、あいつが見送りに来たときに、この思いを伝えてみようか。あいつはどんな顔をするだろうか。喜んで、くれるだろうか。胸に満ちるくすぐったい感情を実感するたび、あいつの笑顔を思い出し頬が緩む。なまえも今頃、俺と同じ思いをしていたらいいと、らしくもなくそんなことを思った。




「……お休み、真ちゃん」




十三日目 | 最後の二人きりの夜にて。








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