「真ちゃんあの、これ。ジャージ貸してくれてありがとう。助かりました」
「汚さなかったのか」
「し、失礼な!借りたものを汚すなんてしないよ!」


冗談だ。そう言って紙袋に入れられたジャージを受け取ると、なまえは拗ねたように俺を軽く睨んでくる。真ちゃんのばか、小さく呟きながらエプロンの腰紐を解くなまえの姿がとても幼稚で可笑しく、飽きれながらも何故か悪い気はしなかった。どうにも機嫌を損ねたのか、黙々と帰り支度をするなまえのペースに合わせ器の中のお汁粉を口に含む。誰もいない食堂に、壁時計の針の音だけが規則正しく響き渡る。時折、部屋で騒いでいる奴らの声が聞こえてくると、なまえは顔を上げおかしそうに頬笑んでいた。こいつは本当に馬鹿だ、その様子を盗み見ながら喉元まで込み上げてきた笑いを押し込める。咳払いをし椅子を引くと、振り返ったなまえは「…な、なに」と唇を尖らせそっぽを向いた。


「いつまでも拗ねているな。帰るのだろう、早くしろ」
「い…いいよ別に。一人で帰れる、もん」
「ほう、俺が送ることに文句があるのか」
「な、ない!文句なんてない、けど……真ちゃんのばか」


相変わらず唇を尖らせたままだったが、鞄を抱きかかえ観念したように歩き出すなまえに溜息をつく。強情を張るのはいいが、相手を選べないこいつが悪い。建て付けの悪い玄関の扉を開け旅館の門へと向かうと、後ろで石にでもつまずいたのか、小さく悲鳴を上げたなまえの声が聞こえ仕方なく振り返る。


「お前は何をしているのだ」
「……つまずきました」
「見れば分かるのだよ。全く、」


いい加減、機嫌を治したらどうだ。そう言って手首を引いてやると、反論しようとして意気消沈したような表情をするなまえが俺を見上げる。口をへの字に曲げ、眉間に力を入れているのか皺が寄っているその顔を、ぼんやりとした月明かりが照らす。何を泣きそうになっているのだ、掴んでいた手首を離し立ち止まってやると、真ちゃんのばか、と再度俺を咎める声が小さく飛んできた。


「明後日でお別れなのに、少しは惜しんでくれてもいいじゃん…」
「そんなことで拗ねていたのか」
「…拗ねたのは、真ちゃんが変な冗談言ったからだけど、」


抱きかかえた鞄に顔を埋め、子どものように目を泳がせながら拗ねるなまえ。先ほどの冗談を間に受けたのだろうか。誰がどう聞いたって冗談に聞こえるのに、変な場所で人の言葉を真っ直ぐに受け取るのもこいつの可笑しなところだ。悪く言えば冗談が通じない、それについては俺も人のことを言えた口ではないが。
惜しんでいないわけではない。まるで駄々をこねる幼い子どもをあやすような気持ちになりながら、風に揺れたなまえの髪をくしゃりと撫でた。こういうことをするのは相変わらず慣れないが、こうもヘソを曲げられると余計に後始末が悪くなる。むすっとしたような顔で俺を見上げるなまえを見ながらそんなことを思い、髪から手を離す。


「…お汁粉、上達したのだよ」
「な、なんで突然お汁粉、」
「褒めているのだ。いちいち口を挟むな」


何それ。みるみるうちに呆気に取られたような表情になるなまえの言葉には答えず踵を返す。歩き出す俺を小走りに追いかけてくる足音が聞こえたのを確認し、いつものなまえのペースに合わせてやる。こいつの歩く速さにも慣れたものだ。初めはあれだけ遅く感じたのに、気付けばそれが普通になってしまっていて、自分の順応性に苦笑する。それが悟られないよう眼鏡を押し上げ、ようやく横に並んだなまえを見ると、拗ねているのか喜んでいるのかよく分からない表情を浮かべている。いつも俺を振り回すから、たまには仕返しでもしてやろうかと思ったが、少しやり過ぎたか。


「真ちゃんのばか」
「お前の頭の辞書にはそれしかないのか」
「……お汁粉、褒めてくれてありがとう」


ぽす、と弱々しい拳が肩へと飛んでくる。照れ隠しと言えど、あまりにも情けない制裁だな。そんなことを思いながら隣を歩くなまえを盗み見れば、顔を真っ赤にさせて俯く姿が目に入る。からかい過ぎた反省はあるものの、どうにも心臓がむず痒くなってきて思わず目を逸らした。やけに耳が熱いのは、蒸し暑い気候のせいだろうか。温さの残る風にこの訳の分からない熱を冷ましてもらおうと髪をかき上げると、「真ちゃん、」と小さく俺を呼ぶ声が聞こえどくりと心臓が跳ねた。


「真ちゃんと初めて話したのって、わたしが真ちゃんとぶつかって転んだときだよね」
「…何だ、突然」
「懐かしいなって思って。まだそんなに時間も経ってないのに、」


もうお別れなんて、寂しいよ。
ぽつりと呟いたなまえは、足元にあった小さな石を軽く蹴る。スカートの下から覗いたその膝には、あのときの傷は綺麗に治っており、跡すら残っていなかった。初めてここへ来た日、こいつの膝から滲んだ血を見てバツが悪くなったときのことを思い出す。
あれから12日が過ぎようとしている。時間が経つのは速いと痛感すると共に、明後日帰らなければならないという現実を突きつけられたような気がした。
寂しい、か。この空虚の感覚を表すには十分すぎる言葉だった。それと同時に、離れたくないと、ずっと気付かないよう押し込めてきた感情が芽生える。それを言葉にしてしまえば、なまえを困らせるだけだというのに。どうしようもないジレンマに苛まされ、気付けば不意になまえの細い肩を掴んでいた。それに振り返ったなまえが、肩を掴む俺の手を取り驚いたように見上げてくる。


「真ちゃん、」
「……、何でもない。すまなかった」


こんなことをしても、無駄だ。やるせない思いに気づかぬよう空を仰ぐと、いつものカーブミラーがぼんやり見えた。肩を掴む手を離すと、なまえは何か言いたげに俺を見る。その視線を黙って受け止めると、困ったように微笑みなまえは俯いた。何か、気づかれてしまったのか。自分の行動の浅はかさと、幼稚で甘えた考えに言葉が出なくなる。寂しいなんて、らしくもない。今生の別れでもないのに。
俯いたままのなまえの額を小突き元来た道を帰ろうとすると、真ちゃん、と俺を呼び止める声が追いかけて来た。その呼び方はやめろ、いつものようにそう言い返すと、小さく苦笑するような声が聞こえた。


「送ってくれてありがとう。気をつけて帰ってね」


空気に溶ける声が、耳に心地良い。それでも、こんな穏やかな時間が過ごせるのも残り二日だと思うと、やはり心に隙間が空くような感覚になるのも嘘ではなかった。

(そろそろ素直になれって)


遠くで高尾のあの言葉が蘇る。何をどうすれば素直だと言えるのか未だに分からない。けれど、俺が感じた寂しいという感情は紛れもないものだ。それを言葉に出来ないのは、単にあいつを困らせる訳にはいかないから。そして、俺のわがままでしかないから。
寂しいよ、と呟いたあの横顔を思い出す。再び胸の奥をかき乱すような感覚と、締め付けられるような感覚が入り乱れ思わず振り返った。カーブミラーの下に見える小さな姿が、俺が振り返ったのに気づいたのか大きく手を振っている。それに返すことはせず再び前を向くと、ちかりと光る星が見えた。

心臓をくすぐるこの妙な感覚に名付けるなら、どんな名前が相応しいのだろう。確かに灯るこの気持ちを伝えるならば、どんな言葉が似合うのだろうか。




十二日目 | いつもの分かれ道にて。







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