昨晩は、風で震える窓を見ながら、二人で夜遅くまで話していたような気がする。
あいつに貸したジャージは、当然のように体型に全く合っておらず、肩からずり落ちるのを抑えながら照れ臭そうに笑う姿を見て、思わず目を逸らした。煩い窓の喧騒の中、風呂上がりで濡れた髪を弄りながら小さく欠伸をしたあいつに、昼間言いかけたことは何だと問い質す。しかし、あいつはその質問に答えようとはせず、真ちゃん、と俺の名前を呼んで微笑むだけ。まるで子どものような無邪気な笑顔に言葉が詰まり、考え込んでいた自分がどうにも馬鹿らしくなってしまって黙り込む。あの笑顔を見ると何も言えなくなることを、あいつは気付いているのだろうか。俺を振り向くたび笑顔になるその横顔を見つめれば、不意に心を掻き乱されるような感覚を覚える。不可解なこの感覚はきっとこの嵐のせいだと思い込み、これ以上無駄な疲労を増やすまいと溜息をついた。




「…ちゃん、真ちゃん」
「……なまえ…?」
「うん、朝だよ。起きて」


誰かが肩に触れている。覚醒していない頭でそんなことを考え重たい瞼を上げると、ぼやけた視界に輪郭は確かでないがなまえがいるのが分かった。何で、こいつが部屋に。考えようとするがどうしようもない眠気に邪魔をされ、仕方なく気怠い身体を起こし眼鏡を取った。さあ、とカーテンを開く音がしたと思ったら、眼鏡を通して明瞭になった視界に朝日が差し込んでくる。窓際に立ったなまえが、それを見て小さく歓声を上げたのが聞こえた。


「真ちゃん、晴れたよ。ほら、」
「…あまり騒ぐな。頭に響く」
「ごめん。おはよう、真ちゃん」


朝ごはん出来てるんだけど、真ちゃんがなかなか起きてこないから呼びに来たの。そう言ってなまえは窓を開けると、ふわりと舞ったカーテンをそっと束ねた。もうそんな時間だったのか、欠伸を噛み締めながら時計へと目を向けると、確かにいつも目覚めるより遅い時間だ。練習には間に合うが、朝食をのんびり取っていられる時間はない。ぼんやりそんなことを思いながら立ち上がると、血圧がなかなか上がらず不意に眩暈がした。これだから、朝は嫌なのだ。


「わたしが昨日遅くまで付き合わせちゃったから疲れてるんだよね。ごめんね真ちゃん」
「…お前のせいではないのだよ。練習の疲れが溜まっているだけだ」
「でも、」


おず、と俺の背中を追いかけた声に振り返り、仕方なくその頭に手を載せる。驚いたように目を丸くして俺を見上げたなまえは、真ちゃん?と首を傾げた。


「どうしたの?」
「……いや、」


手を載せたのはいいものの、そこからどうしたらいいか分からず黙り込む。お前が気にすることじゃない、そう言いたかったのに、これではただの空回りではないか。流れた沈黙に、食堂から聞こえてくる騒ぎ声がやけに響く。もうあいつらは朝食をとっているのか、などと場違いなことを考え場を凌ぐが、とりあえずこいつの頭に載せた手をどうにかしなければ。いやしかし、突然手を出しておいて何も言わないまま離すというのは、流石に失礼ではないのか。だが、この状況を回避するにはどうしたら…。
悶々としている俺を見兼ねたのか、なまえはふと笑い、俺の反対の手を握って「真ちゃん、」と穏やかに呟いた。


「わたし、昨日真ちゃんに借りたジャージの洗濯しなきゃだから、今日は早く帰るね」
「……あ、ああ」
「お夕飯の支度もしてあるから、今日も練習頑張ってね、無理はしちゃだめだよ」


体温の低い指が、テーピングを施した俺の指をするりと伝う。そのまま離れていく感触を黙って見送りながら、窓から吹き込む柔らかな風にふと視線を上げた。風に揺れるなまえの髪を目で追うと、俺の手から逃れたなまえがドアへと駆け寄り、ひらりと手を振る。


「先に食堂行ってるね。寝癖、ちゃんと直すんだよ」


なまえ、呼び止める声もままならず、軽快な足音を立てながら俺の部屋から出ていく背中。残された俺は、跳ねた前髪を撫でつけながら大きく溜息をついた。
頭を撫でるなどと、まるで高尾のような軽率な行動は慣れない。そもそも、普段しないようなことを何故俺は突然やろうと思ったのだ。いくら寝起きだったと言えど、あまりにも不可解だ。
考えれば考えれるほど疲労感が蓄積する。気分を静めようと前髪を弄るも、跳ねた髪は一向に落ち着く様子がなく訳の分からない方へと向く。負けじとその前髪を摘むと、俺の寝癖を見て細められたあいつの眼差しが蘇り、不意にあのくすぐったい感覚に襲われた。


「…意味が分からん」


訳の分からないこの感覚に、早く消え去れと念じながら鏡の前に立つ。どうにもしぶとい寝癖は、本気で直しにかからないといけないようだ。溜息をついてドライヤーを手に取ると、開け放たれたままの窓から蝉の鳴き声が響き始めた。まるで一日の始まりを合図するかのような、そんな。
そっと目を閉じ耳を澄ますと、蝉の声の中に、食堂の喧騒や、さざめく波の音、木の葉が小さく擦れる音が聴こえる。こんなときにドライヤーのけたたましい音は余りに野暮だと一人笑うと、そよぐ風に頬を撫でられた。仄かに香る雨水の匂いを肺一杯に吸い込むと、何故だか物寂しい思いに駆られる。


「あと三日、か」


あと三日。ここに居るのも、残り僅かな時間なのだ。長かった二週間も、終わりに差し掛かっている。そう実感すると、何故だかこの一瞬の空気がとても愛しく思えた。そして同時に、東京へ帰ることを惜しむような、そんな思いも湧き上がる。こんな辺鄙な場所にも愛着のようなものが出てくるのか、と自嘲気味に一人笑ったとき、ふとあいつの顔が脳裏を過った。寝癖、ちゃんと直すんだよ。そう言って俺を見て目を細めたなまえの顔を、何故俺はこんなときに思い出したのだろう。



***




「なまえちゃん?あー、さっき帰ってったぜー何でもジャージ借りたから洗濯するって。何?真ちゃんもしかして、なまえちゃんに起こしてもらったわけ?全く朝からいちゃついてんなよーまるで新婚夫婦みたぐえっ」


怒りに任せて振り下ろした拳は見事高尾の脳天にめり込んだため、後処理は先輩たちに任せることにした。
ここに来たときよりも、朝方の気温はいくらか和らいだ気がする。部屋の換気のためか宿舎全ての窓が解放されており、少し温さは残るものの心地良い風が吹き抜けた。十分ほど格闘した前髪はようやく落ち着きを取り戻し誰に知られることもなく、俺は食堂の自分の席へと座る。先に食事を終わらせた部員がバタバタと片付けをし始めた頃、いつの間にか復活していた高尾が突然俺の傍へ来て、「これ、なまえちゃんから」と言い目の前にことりと小さな器を置いた。


「…これは何なのだよ」
「見りゃ分かんだろ、お汁粉。なまえちゃん超練習してるみたいだぜ」


お前に出しといてくれって頼まれたんだよ。高尾は溜息混じりにそう言いながら俺の前に座り、やれやれと頬杖をついた。テーブルから伝わる振動で、器の中のお汁粉がとろりと揺れる。持っていた箸を置き器を持てば、仄かに甘い香りが鼻をついた。


「全く。お汁粉一つに対する真ちゃんのワガママも相当だけど、それを黙って聞くなまえも相当だわ」


高尾の言葉を右から左へと流しお汁粉を一口飲むと、確かに以前より上達した味が舌へ伝わる。本当に練習していたのか、とぼんやり思い、もう一口飲もうとすると、「なあ、真ちゃん」と高尾が俺を仰ぐ。
器を置き何だと返答すると、高尾は何故か上着のポケットから携帯を取り出し何かを操作したあと、ふと俺の前へと差し出す。それを受け取り画面を見れば、カレンダー表示されたそこに、残り三日、と入力されているのが目に入った。何故これを俺に見せたのだ。意味が分からず高尾に携帯を突き返すと、奴は溜息をついてそれをしまい、テーブルへと突っ伏す。


「ほんと、もうそろそろ素直になれって」
「何だ、藪から棒に」
「あと三日だぜ?あと三日で、なまえちゃんと会えなくなんだよ。いいのかよ?」


そうやってお汁粉作ってもらうのも、夕飯食べさせてもらうのも、一緒にどこかに行くことも、毎日会うことすらも出来なくなる。お前寂しいとかって思わないわけ?
軽く飽きれた表情をしながらも、一気にまくし立てる高尾に少しだけ面食らう。こいつは何故こうも、なまえの話になるとムキになるのだ。俺は東京へ帰る、それは百も承知だし、毎日会えなくなるのなんて必然ではないか。確かに寂しい気持ちもある、それは先ほど実感した。だが、


「ま、せいぜい後悔しなさんな」
「おい、高尾」
「俺から言えるのはこれだけだっての。あとは自分でファイト」


引き留めたにも関わらず、席を立ち食堂から出て行く高尾の背中をしばし見つめる。あいつが何かを言いたがっているのは事実だ、しかし、それをあいつの口から言ってしまえば俺の為にならないからと、隠していることも分かる。
全く理解出来ない。あいつは俺に何を諭そうとしているのだ、そもそも、あいつに諭されるようなことなど何もないではないか。なのに。
あと三日でなまえには会えなくなる。それは今に知ったことでもないだろう。そこに何を執着する必要があるのだ。

揺れるお汁粉の表面に、整え直した前髪が映っているのが見える。そして、先ほど脳裏を過ったあいつの笑顔が再び浮かんだ。確かにあいつは、何だかんだと言ってもこうして俺の好きなものを作ってくれた。そして、何かあればそんな必要などどこにもないのに、馬鹿みたいに笑いながら礼を言って。
そんなことを思ったら、あのくすぐったい感覚が再び襲ってきた。変にむず痒く、落ち着かないこの感覚は一体何だ?この感情は、何だ?
分からない。考えても、今まで知らなかったこの感覚の答えが見つかる訳がなかった。ただ、心臓を刺激するこのむず痒い感覚を覚えると、無性にあいつの顔が見たいと感じているのも、皮肉ではあるが事実だった。




十一日目 | 静かな朝の窓辺にて。








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