合宿も既に折り返し地点を過ぎたというのに、ここへ来て今日初めてボールを触ったと聞いたら、他校のバスケ部にどんな顔をされるのか。そんなことを考えるだけで背筋に寒気が走ったので、慌ててボールを持つ手に集中した。
ゲーム形式の練習をしたのは実に一週間以上ぶりだ。旅館の裏にバスケットコートがあるのは知っていたが、監督に言い渡されたメニューでは今日から本格的にボールを使った練習をすることになっていた。基礎体力を作るためには確かに走り込みも大事だが、これだけ長い間ボールを触っていないと流石に感覚が鈍る。いくら各自でハンドリングをしていたとは言え、やはり練習中に触っているのとは訳が違う。それはほかの奴らも一緒のようだった。


「なーんか調子悪いよなぁ」
「当たり前だ。一週間以上ボールを触っていなかったのだからな」


手首を回しながら不服そうな顔をする高尾に言うと、奴はそうだよなぁと間抜けた声を出した。クオーター間の中途練習でシュートを入れていると、逐一それを高尾が拾い投げてくる。ボールを拾うのはいいが、お前も練習をしろ。
「あ、ちょっタンマ真ちゃん!」3Pを打とうとフォームに入ったとき、高尾が俺の後方に視線をやり慌てた声を出した。何事かと振り返ると、コート外のベンチへと座っていたあの女の姿が目に入った。俺が預けた今日のアイテムを抱え込み、珍しく俯いている。高尾が駆け寄りその肩を支えると、少し驚いたように女は顔を上げた。


「なまえちゃん、何か顔色悪くね?平気?」
「…ごめん高尾くん。なんかちょっと、気持ち悪い、かも」
「え、まじで。ちょ、キャプテーン!なまえちゃんが何か調子悪いみたいで、」


高尾の言葉に騒然となる中、すぐに状況を悟ったのか大坪キャプテンが女の元へと駆け寄る。無骨な手で遠慮がちにその背を撫でると、「熱中症だな」と顔を上げた。ざわめく部員たちが周りを囲む中、俺は少し離れたゴール下からその様子を見る。今日はいつもより早めに来たからと、俺たちの練習を見にこの猛暑の中座っていたからだ。と内心で舌打ちをした。
昼前に宿舎へと来て、目を輝かせながらはしゃいでいた姿を思い出す。水分も取らずボヤボヤしていれば、熱中症になるのも当たり前だろう。どうしてこうあいつは…。


「高尾」


手に持っていたボールを地面へと置き、女の傍で狼狽えている高尾に声をかける。奴が振り返るより先に俺は踵を返し、着ていたビブスを脱いでボールの籠へと掛けた。


「そいつを玄関へ連れてこい。俺が送る」
「……は。え。おい、真ちゃん、」
「早くしろ。時間の無駄だ」


熱中症なら、早く休んだ方がそいつのためだろう。そう言うと高尾は少し目を見開き、そして肩を竦め小さく頷いた。なまえちゃん、と言って奴が女の身体を担ぎ上げたのを見て、俺も玄関先へと向かう。高尾に担がれて歩き出した女の身体を、心配そうに気遣うキャプテンたちの声を背中で聞きながら歩いていると、「し、真ちゃん、」と何とも情けない声が俺を呼び止めた。


「ごめん。わたし一人で帰れるから、だから練習戻って平気だよ」
「お前はまたそれか。俺が送ると言ったら送るのだよ」
「でも、」
「だーいじょうぶだってなまえちゃん!真ちゃんがああ言ってんだから甘えとけ」


ついでに、今日の夕飯も俺らが作るから気にすんな。と高尾が言うと、女はくしゃりと顔を歪める。「自業自得だろう」と玄関先の自転車を取り出しながら呟いたら、高尾の野次が飛んできた。うるさい奴だ。
抵抗する女を、高尾が無理矢理荷台へと乗せる。それを見届けて俺も自転車へと跨れば、奴はさも俺の姿を面白がるように口元を抑え必死で笑うのを堪えていた。こいつ、こんなときまでヘラヘラするとはいい度胸だな。「真ちゃんが、チャリ、乗って、ブフっ」「高尾、お前はどうやら一発殴られたいらしいな」「うそうそ!ごめんやっぱ面白いわ!」

こんな奴に付き合ってられん。呆れ返ってペダルを踏むと、後ろの女が慌てたような声を上げた。ほらほらちゃんと掴まらないと、と言って高尾が女の手を俺の背中へと触れさせる。少し躊躇ったあと、遠慮がちに服の裾を握ったのを確認してから、俺は再びペダルに足を掛けた。


「んじゃ、なまえちゃん今日はゆっくり休んでなー」
「た、高尾く、…真ちゃんあの。降ろし、」
「少し黙れ。気が散る」


普段から高尾に漕がせているため、慣れない自転車に少し苛立った。こんな乗りにくいもの、やはりあいつに運転させるのが一番いいのだ。そんなことを考えたら思わず溜息が出て、それを聴いた女の手が小さく震えたのが分かった。
「ごめん、真ちゃん」練習の邪魔しちゃって、夕飯の準備もできなくて、ごめんね。掠れた声で背中に語りかける声を黙って聞く。服を握られているからか、どうにも背中に違和感がある。いつもならすぐに離すよう言っているところだが、今回ばかりは仕方ないともう一度溜息をついた。


「…馬鹿な奴だ」
「う、ん。ごめん」
「謝るな。今日ゆっくり休んで明日また来ればいい。一日くらい、休憩したって罰は当たらんだろう」


なまえ。
初めて口にしたその名前は、ひどく不慣れで、それでも不思議と穏やかな感情を覚えた。
何故突然、名前を呼ぼうと思ったのか、自分でも定かではなかった。けれど、小さく震えているこいつに、何か自分にできることはないかと思ったのは事実で。高尾のように笑いかけてやることも、キャプテン達のように身体を気遣うことも俺はできない。そんなもどかしさを抱えながら呟いた名前は、こいつがお汁粉をうまく作れるようになるまでは、呼ばないと決めていたのに。まるで、その一瞬だけ時間が止まったかのような感覚さえした。
く、と服を握る手に力が入る。まるで幼子のように、縋り付くようなその仕草に、あのくすぐったい気持ちが溢れてきた。なまえ、もう一度その名前を呼ぶと、背中へと女の額が触れ駄々を捏ねるように押し付けられた。耳を澄ませば、小さく聞こえてくる啜り泣いたような声に、何故だか頬が緩む。


「服を汚すなよ」


そう一言呟いてやると、小さくこくりと頷いた。躊躇うように、けれど手探りで俺の腰へと回された手が未だ震えている。しゃくりあげる声を聞きながら、家に着くまではせめてこのままでいさせてやろうと目を細める。ありがとう、と、情けなく絞り出したような声に小さく笑えば、腰へと回った腕の力が強くなったような気がした。




九日目 | 炎天下の練習にて。







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