「なまえサン、なまえサン」


ゆさゆさと肩を揺さぶった手に、重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。回らない頭で何事かと思考を巡らせると、薄く開いた視界に艶やかな黒髪が見えた。綺麗だなあとぼんやり思うと、彼はふと穏やかに笑い目元にかかった前髪を払う。
おはよう、高尾くん。寝起きの掠れた声はどうにも恥ずかしく、思わず笑って誤魔化すと、高尾くんはおはようと返事をしたあとわたしが寝ているベッドから腰を上げた。重みを無くし小さく跳ね上がったベッドは、わたしが一人暮らしを始めるときにバスケ部のみんなから、お祝いで買ってもらったものだ。贈り物をされた当初は本当に驚いたけれど、何だかんだ言ってこのベッドはお気に入りなのである。


「なまえさん、目玉焼きとスクランブルエッグ、どっちがいいっすか?」
「んー…目玉焼き。ベーコンも欲しい…」
「りょーかいー」


のんびりとそう言いながらキッチンへと向かう高尾くんの姿を追う。わたしも何か手伝わなければと重たい身体を起こすと、ひやりとした空気を肌に感じた。もう春なのに、まだ朝方は寒いなあと思いながら目線を落とすと、飛び込んできた光景に思わず手元の掛け布団を引っ張り上げた。


「ななななな、なんで…!」
「あ、なまえさんの服、洗濯しといたっすよ。昨日俺がしわくちゃにしちゃったし」
「あ、ありがと…、じゃなくて!何か着るもの…っ」


そういえば昨日、高尾くんがわたしの服つかんだり引っ張ったりしてたから、シワになってたかも…。だけど、朝まで何も着ないまま寝てたなんて!恥ずかしい…穴があったら入りたい!むしろそのまま埋まりたい…!
布団に包まりながらめそめそしていると、卵を割りながら高尾くんが小さく笑っているのが聞こえた。ひどいよ高尾くん!クローゼットまで行くにはベッドから出なくちゃいけないのに、こんな仕打ち…。うう。


「俺は別にいいっすよ。なまえさんの身体きれいだし」
「いやーそういうこと言わないでー!」
「ほら、朝ごはんできましたよ」


あ、ベーコンの焼けるいい匂い。高尾くんが作るご飯は簡単そうなのに、本当に美味しいから好き。下手したらわたしより料理出来るんじゃないかってくらい美味しいから、たまに羨ましくなったりもする。
ことりとテーブルに置かれたお皿には、綺麗に盛り付けられた目玉焼き。そして丁寧に牛乳とトーストまで用意してくれてある。高尾くん、どれだけ主夫なの…と心臓の奥がきゅんとなった。それと同時に、何もお手伝い出来なかった自分にちょっとだけ悲しくなる。


「ほら、なまえさん。俺のシャツ着てていいから朝ごはん食べましょーよ」
「…高尾くん。いつになったら敬語やめてくれるの」
「なんすか藪から棒に。前も言ったでしょ、俺が高校卒業したらだって」


でも、まだ一年もあるよ。そう呟いて高尾くんを仰ぐと、彼は白いシャツを差し出しながらきょとんとした表情を浮かべた。
秀徳バスケ部のマネージャーだったわたしと、部員だった高尾くんがお付き合いを始めたのは秋も終わりに近付いた頃。幸せな時間というのはあっという間に過ぎていくもので、二つ年上だったわたしは高尾くんより先に高校を卒業した。そして地元を離れ大学へと進んだわたしのところに、高尾くんは暇を見つけては遊びに来てくれている。だから寂しくなんてないけれど、付き合ってるんだから敬語なんていらないのに、と思うのも嘘では、ない。
そんなことを話したら、高尾くんは決まって今のようなことを言うのだ。


「なまえさんに似合うような立派な男になったら、敬語もやめさせてもらいますよ」
「……今でも十分立派なのに」
「ほら、早くこれ着て朝飯食べましょーよ」


肩を支えわたしの身体を起こした高尾くんは、にこりと綺麗に笑った。この笑顔が大好きで、いつも言い負かされてしまう。こんなにかっこいい高尾が彼氏だなんて、わたしは贅沢者だ。
シャツを羽織らせボタンを留めてくれる高尾くんがふと手を止める。何だろうと思って彼を見上げると、その瞬間唇を重ねられた。突然のことにびっくりして思わず身体を反らすと、高尾くんはそんなわたしを見て悪戯っぽく笑い「大好きっすよ」と穏やかに言った。髪を撫でるその指が何だかくすぐったくて、堪らず高尾くんに抱きつくと待ち構えていたように背中へと腕を回された。ああもう、本当に大好き。


「なまえさん可愛い。ほんと好きっす」
「…わ、わたしだって負けないくらい大好きだよ」


俺だって。嬉しそうに言ってわたしを強く抱き締めた高尾くんの背中に腕を回すと、高尾くんの細身の身体からふと力が抜けたのが分かった。こうして彼が心を許してくれる存在がわたしであることを、本当に幸せに思う。
春の朝は少しだけ肌寒く、高尾くんの大きなシャツだけじゃやっぱり身体が冷える。けれど、高尾くんとこうしていれば、こんな寒い朝も悪くないなあなんて甘ったるい気持ちになった。こんなことを思うなんて、わたしらしくもない。そう思ったら何だか笑ってしまって、不思議そうにわたしを見た高尾くんに何でもないよ口付けると、彼は心底驚いたように目を丸くして固まった。


「だいすき、高尾くん」


黒髪の向こうに見える朝陽に、心が穏やかに波打つ。高尾くんが、自分の思う立派な人になるまで、きっと時間はかかるけど、こうしてまた二人で春の朝を迎えられるといい。それまでに、高尾くんに負けないくらい目玉焼きが上手になってなきゃなあ。
ぽすりと彼の胸に寄りかかると、らしくもなく緊張したようにわたしの身体を抱く高尾くん。いつも高尾くんには言い負かされてるから、そのお返しだ。くすくすと笑って高尾くんに回した腕へ力を込めると、観念したように彼は溜息をつく。
目を閉じると、高尾くんの少しだけ速い心臓の音が心地良く聴こえた。




そうして二人にやって来るのが同じ朝でありますように







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