旅館の縁側から見える夕陽を見ながら、妙な倦怠感に溜息をついた。
今日のおは朝占いでは、蟹座は7位という微妙な順位だった。現在の時刻は17時。一日の練習を終え宿舎へと戻ってきたが、何せ昨日の今日だ。一体何が起こるか全く検討もつかない。ましてや、高尾のせいで今日からあの女が仮のマネージャーとして来る。昼の練習のときには姿は見せなかったが、これから来るのだとしたら何かとんでもないことが、「こんばんはー」……来た。
縁側から見える玄関先に、あの女が少しおどおどとした様子で立っているのが見えた。練習後のケアをしていた高尾が、その声を聞きつけ即座に立ち上がり、大きな足音を立てながら玄関へと繋がる廊下を走っていった。俺の傍を横切るときにびゅ、と風圧が来て、浮き上がり乱れた前髪に少しだけ苛立つ。それから少しして、「おーなまえちゃん、今日遅くね?」と陽気に迎える声が響いてきた。


「うん、ごめん高尾くん。わたしマネージャーとか何やっていいのか分からなくて。とりあえずご飯の支度しようかなと思って、」


買い物してたら遅くなっちゃった。
そう言って両手に持っていた袋を掲げると、高尾が腹の底から出したような歓声を上げたのが聞こえた。それを聞きつけキャプテンや部員たちが様子を見に集まってきたのが分かり、半ば飽きれて溜息をつく。あの女も全く意味が分からない。こんなただ働きのようなことを、よくやる気になったのだよ。高尾に無理矢理引き込まれたのも分かるが、さっさと断れば良かったものを。
女から荷物を受け取り、高尾が中へと入るよう促しているのを冷ややかに見る。と、そのとき、ふと女がこちらを振り向き俺の姿を捉えた。……なぜ俺がここにいることが分かったのだ。予想外ことにどうして良いのか分からず、かと言って逃げる訳にもいかず硬直していると、女は少し目を丸くしたあと、ふと笑顔を浮かべ小さく手を振ってきた。


「どしたん?」
「う、ううん。あ、高尾くん荷物持たせてごめんね、平気?」


立ち止まっていた女に、玄関の扉から高尾が顔を出し急かす。女はそんな高尾へと笑って、俺に振っていた手を慌てて高尾に伸ばし荷物を受け取ろうとしているのが見えた。
…一体何なのだ、あいつは。あんなふうにこそこそと手を振らずとも、夕食のときにどうせ顔を見合わせるだろう。あれじゃまるで俺がやましいことをしているようではないか。
宿舎へと入り女たちの姿が見えなくなると、どっと身体の力が抜け倦怠感が更に増した。あの女の行動は本当に不可解だ。全てにおいて理解に苦しむ。奥の調理場から聞こえてきた歓声に、きっとまたあいつが何がしたのだろうと悟る。夕べ遅くまで調理場の掃除をしていたキャプテンや同期の奴らを思い出した。


「…意味が分からん」


悔しいが、人は飢えには勝てない。それは認める。だがしかし、あんな知り合ったばかりの女に頼まずとも良かったではないか。食事くらい、自分たちで何とでも…。…いや、それは流石にリスクが大きいが…。考えているうちに何故だか悶々としてきて、大きく溜息をつく。この合宿に来て振り回されることばかりだ、主に高尾とあの女に。そして部員の奴らはそれに乗っかりすぎなのだ。重い背中に肩を落とすと、ぼんやりと薄紫に染まってきた空にヒグラシの声が小さく聞こえてきた。縁側に吹き込む柔らかな風も、今日は少しだけ肌寒い。クールダウンした身体を無闇に冷やさぬよう、縁側の扉を閉めようと立ち上がると、後ろから高尾の奇声が聞こえてきた。あいつはそろそろ一発殴る必要があるな。



・・・




「うまかったー!ごっそさん!」
「よ、良かった。全部食べてくれてありがとう!」


夕飯が出来たと同期の奴が俺を呼びに来たのは、それから二時間程してからだった。騒がしい調理場へ顔を出す気など更々なく、部屋で一人トレーニングをしていると、時々高尾が面白おかしそうに覗きに来た。なので、途中で鍵を閉めてやったらあの女の名前を呼びながら駄々っ子のように逃げていく足音が聞こえた。何故あいつを呼びに行った。
食事を全て平らげたあと、満足そうに腹をさする高尾がふと何かを思いついた様子でこちらを見てきた。そうして同期の奴らと一緒に片付けをしている女の姿を見たあと、もう一度こちらを見てあのいやらしい笑みを浮かべてくる。こいつ、また何か余計なことを考えているな。


「なぁ真ちゃん」
「黙れ何も言うな今すぐ口を閉じろ」
「なまえちゃーん!今日も真ちゃんが帰り送ってくれるってさー!」


高尾の言葉に部員たちが興奮したようにざわめくのが分かった。エプロンを外しこちらへ歩いてきていた女も目を丸くした様子が見える。高尾、お前は一体何を…!椅子から立ち上がり高尾に詰め寄ると、奴はニヤニヤと笑いながら肩を竦める。


「まぁまぁ真ちゃんそう怒るなって!帰り走ってくればトレーニングにもなるっしょ!」
「高尾!」
「し、真ちゃん。高尾くん、」


大丈夫だよ。わたし一人で帰れるし、ゆっくり休んで真ちゃん。
畳んだエプロンをしまい困ったように笑ったあと、女はキャプテンに「じゃあ、今日はこれで」と頭を下げ俺たちにもう一度笑いかけた。そうしてそのまま踵を返し玄関まで歩いていく姿になまえちゃん、と高尾が少し驚いたように呼びかけたものの、女は振り返り手を振っただけで立ち止まることはしなかった。今までこんなことなど、なかったのに。誰しもがその何分かの出来事にそう思ったはずだ。しかし誰もそれを言葉にすることはなく、玄関の扉が閉まる音を全員が無言で聞く。
女が出て行ったあと、何とも言えない空気が食堂へと流れた。その空気にバツが悪くなり高尾から離れると、「あー…」と奴はやってしまったというように頬を掻く。


「傷付けちゃった、かね…?」


静かに閉められた玄関の扉を見て小さく呟いた高尾が、返答を求めるように俺を見る。その視線に気づかないふりをし、俺は内心で舌打ちをした。
元はと言えば誰のせいだ。そもそも高尾、お前があの女にマネージャーなどを任せなければこんなことにはならなかったのだ。そして、帰り道を送っていけとからかったりしなければ。だが、しかし。


「…いや、今回は俺のせいでもあるのだよ」
「え、ちょ真ちゃん」


俺も少し、拒みすぎたかも、しれない。半ば強制的ではあるが、あの女が嫌な顔をせず食事を作りに来てくれたことは事実だ。その礼を、俺はまだしていない。
駆け出す俺を見て高尾が呼び止めるも、追いかけてくることはしなかった。こういうときに空気を読めるのは、あいつの長所でもある。だが、あいつは少し調子に乗りすぎた。これで反省するべきなのだよ。
そんなことを考えながら、玄関を出て旅館の門を潜ると、前方に女の小さい背中が見えた。前に送っていったときは気づかなかったが、この道は外灯が少ない。いくら田舎で人通りが少ないとしても、一人で帰らせるのは余りにも無責任ではないか。そう思ったら自分の浅はかさに少しだけ呆れ、不意に溜息が出た。


「おい女、止まれ」
「…え。あれ?真ちゃん。なんで、」
「送る。文句は聞かんぞ」


立ち止まった女の隣に並ぶと、心底驚いたように女は目を丸くして俺を見上げてきた。何も言わせないようそのまま歩き出すと、慌てたように小走りで女が追いかけてくる。


「あの、真ちゃん。わたし本当に大丈夫だから、」
「…悪かったのだよ」
「え」


別に、お前を送ることが嫌だった訳ではない。 し、真ちゃんわたし怒ってないから、そんな謝らないで。 うるさい黙れ、……それと。


「食事、不味くはなかった……ありがとう」


小走りだった女の足音が、俺の言葉に一瞬だけ止まる。その一瞬の静寂がひどく長く感じた。まるで時が止まったような、とても不確かな感覚。そんな静寂を破ったのは、小さく震えた空気だった。何を見た訳でもないのに、後ろで女が小さく笑ったのが伝わる。それを理解した途端、一気に現実へと引き戻されたような感覚を覚えた。
真ちゃん。穏やかな声が俺の名前を呼び、答える代わりにゆっくり振り返ると、目を細めて微笑む表情が視界に映る。少しだけ照れ臭そうに、けれど嬉しそうなその表情が、暗闇の中でもはっきりと見えた。


「どういたしまして」


そうしてまた小走りで駆け寄ってきた女が、笑いながら俺の隣に並ぶ。余りにも満面に笑顔を浮かべるものだから、こっちが気恥ずかしくなって思わず視線を逸らし黙って歩く。歩幅が合わず再び小走りになる女に溜息をつき、仕方なくゆっくり歩いてやると、女はまた嬉しそうに笑ってようやく普通の歩幅で歩き出した。いやらしい顔をするな、そう咎めるも、女は聞いてるのか聞いてないのか弛んだ頬を引き締めることすらせず、浮かれた様子で俺の隣を歩く。すると、ふと何かを思い出したように俺を見上げ、ねぇ真ちゃんと声を掛けてきた。


「わたしの名前、なまえだよ。覚えてる?」
「うるさいのだよ。覚えてほしければ、まず一人前に食後のお汁粉を作れるようになれ」
「え!何でいきなりお汁粉!」


文句あるのか。 な、ないけど。 なら作れ。
俺を見上げ何か言いたげな顔をしたが、観念したように返事をする女に小さく溜息をついた。一度歩いたこの道も、こいつの歩調に合わせていると何倍も時間がかかるような気分になった。しかし、不思議と悪い気はせず、珍しく肌寒いと感じる空気を肺へと吸い込んだ。こいつがお汁粉を一人前に作れるようになるまでは仕方がない、礼をする代わりに送り届けてやろうか。そんならしくもないことを思いながら、隣に歩く女を横目で見ると、それに気付いたのか女は俺を見て小さく笑った。どうしたの?と訊ねる声に何でもないのだよと返し、それからはあのカーブミラーまで、お互いに黙ったまま歩く。女はそれを咎めることもせず、終始嬉しそうに微笑んだまま俺の隣を歩いていた。



五日目 | 並んで歩く夜道にて。








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