「お……っ、」


終わったあああああ!と砂浜に高尾の大声が響いた。
今日の練習は、旅館の目の前にある砂浜をただひたすら走るという単純だが過酷なメニューだった。例の影が薄い奴がいる高校の練習を、監督が意識し俺たちに言い渡したものだ。この二日間ろくに練習できていなかったため、落ちた体力を戻していくにはちょうどいい練習だと思っていたのも束の間。早朝から現在まで休憩を交えつつ練習をしていたものの、やはりひたすら走るというのは身体的にも精神的にもきつい。小刻みに震え悲鳴を上げている両脚を休め、流れる汗を拭った。
そろそろ陽が暮れる。橙の空を見上げ回らない頭でそんなことを思う。夕方になっても蒸し暑い気候、そしてハードな練習で腹なんか減るはずもないのに、夕飯当番で一足早く帰っていた同期の奴等が俺たちを呼びに来た。今胃の中に何かを入れたら確実に吐く。しかし、食べないことには練習も務まらない。どうしようもないジレンマに苦虫を噛み潰す思いで立ち上がると、案の定疲労感でふらついた。


「こんな状態でメシなんか食えっかよ…なぁ真ちゃん…」
「俺を巻き込むな。さっさと起き上がるのだよ高尾」
「無理…もう俺立てな…、あー!」


ふらつくのを何とか堪え、砂浜に大の字で転がっている高尾を一瞥すると、奴は気怠そうに俺を見上げた。と思ったら、ふと俺の後方へと視線を移し途端に大声を上げる。耳をつんざくようなその叫び声に、込み上げる怒りをぐっと堪え振り返ると、少し離れた場所にある海岸線の道路から小さな影がこちらに向かって大きく手を振っているのが見えた。……何故だ、とてつもなく嫌な予感がす「おーいなまえちゃーん!」この馬鹿は何故こうも俺を疲れさせるのだ、高尾…。
ふらつきながら高尾が立ち上がると、その身体からはらはらと砂が落ちる。おい貴様、今の今までもう立てないとか言っていただろう。その体力はどこに残しておいたのだ。機嫌良く小走りになりながら高尾はあの女の元へと行くと、女も少しふらついている高尾に見兼ねたのか慌てた様子でこちらへと駆け寄ってくる。「おい、高尾の奴どうしたんだよ」と宮地先輩が聞いてきたが、俺に聞かれても困るのだよ。


「じゃーん!なまえちゃんが来てくれましたよー先輩方!」
「あれ?お前、一昨日旅館まで案内してくれた奴?」
「あ、はい。なまえっていいます。皆さん練習お疲れ様でした」


へぇ、とあまり興味がなさそうにしながら宮地先輩がさっさと歩き出したのを見て、俺もそのあとに続く。すると、後ろから高尾の陽気な馬鹿声が俺を呼び「真ちゃん、ほらなまえちゃんに何か言うことあるんじゃねーの」と余計なことを抜かした。思わず殴りたい衝動に駆られたが、疲労の余り奴を振り返る気にもなれず黙って歩いていると、高尾の心底つまらなそうな溜息が飛んできた。こいつ、この合宿中に一回殴り倒した方が良さそうだな。


「あ、そーだ!なまえちゃん、このあと一人で帰るんだろ?送ってやるよ!」
「え、でも高尾くん、」
「平気平気!気にすんなって、なぁ真ちゃん!」


…なぜ俺なのだ、高尾。 え、だって真ちゃん、昨日のお礼まだしてないっしょ。 だから、何で俺が!「先輩方ー!真ちゃん今からこの子家まで送ってくんで、夕飯遅れまーす!」「高尾!!!」


「あ、あの真ちゃん!わたし一人で帰れるから大丈夫ですよ!」
「その呼び方はやめろ!高尾、貴様はそのいやらしい顔をどうにかするのだよ!」
「え?なに、緑間が女の子と二人っきりになるって?」


宮地先輩はいつからそこに…!!先ほど歩いていったはずの宮地先輩がいつの間にか隣に並んでいて、驚く俺の顔をまじまじと見つめたあと、何かを悟ったように微笑み肩を軽く叩きながら頷く。何だその顔は。


「え?もしかして真ちゃん、こんな健気な女の子見捨てて自分だけ帰るつもり?」
「だから何で俺なのだ!第一、言い出したのはお前なんだからお前が、」
「緑間、男だろ。ここで逃げたらカッコつかねぇぞ」


こいつらは…!!高尾と宮地先輩だけでなく、キャプテンや木村先輩、そして同期の奴等までがいやらしい笑みを浮かべている。もういっそのこと海に飛び込んでしまいたかった。何だこの仕打ちは。俺が何をしたというのだ。そもそも高尾、貴様が余計なことを言い出さなければ…!
怒りのあまり身体が震え思わず高尾を睨みつけると、奴は面白そうに肩を竦めたあと「ほいっ」と女の背中を押し俺の方へと寄越した。あいつは手加減というものを知らないらしく、押された拍子でよろけた女が俺へ向かって倒れかかる。条件反射で手を差し出すと、変な声を上げながらそいつは見事に俺の腕の中へ飛び込んでき「わーーー真ちゃんが女の子を抱きしめてるーーー!!」「お前もやっぱり男だったんだな緑間!!仕方ねーから今日はパイナップルで殴るのは勘弁してやるわ!!」


「………行くぞ」
「わ、ちょっ真ちゃん」
「いいから行くぞ後ろを振り返るなあいつらを見るな」


もうこのまま海へと飛び込んでしまいたい。いっそのこと宿舎へと帰らず一人で東京へ戻りたい。心なしかキリキリと胃が痛みどっと疲れが押し寄せたきた。まだ合宿に来て三日目だというのに、このただならぬ疲労感は何だ。全て高尾のせいだと自問自答すると無意識に大きな溜息が出た。そういえば今日のおは朝占い、獅子座は11位だったな…。
痛む頭を抑え自分の運の悪さにうんざりする。日頃から人事は尽くしているが、ここまで運が悪いと逆に怖いくらいだ。そう思うと胃の痛みが増強したような気がしてきて、慌てて雑念を振り払った。


「あの、」
「……何だ」
「すみません。何だかわたしのせいで、真ちゃんにご迷惑をおかけしてしまったみたいで」


陽も沈みかけ薄暗くなってきたにも関わらず、生温い風は相変わらずだ。汗をかいて張り付くシャツに顔をしかめると、後ろから小さく声をかけられた。振り返ることすら億劫で、前を向いたまま返事をすると、申し訳なさそうな声音で言葉が繋がれる。仕方なく立ち止まり女の方を見れば、俯きながら口を真一文字に結んだ顔が目に入った。…少しは理解のある奴なのだな。膝に貼られた絆創膏が一枚減っているのを見て、今日何度目か分からない溜息をつく。すると、女がおずおずと顔を上げ、困ったような表情を浮かべた。


「お前のせいではないのだよ。元はと言えば、全て高尾が招いたことだ」
「でも、真ちゃん、」
「その呼び方はやめろ。…それと、」


ヒグラシが、鳴いている。
こんなときに、場違いにもそうぼんやり思った。最後にこうして、夏に鳴くヒグラシへと耳を傾けたのはいつだっただろうか。童心を忘れ、毎日にせわしなく追われながら、風情や情緒を感じる心のゆとりすら、どこかに失くしてしまっていたのか。目を閉じそっと耳を澄ませば、心地よく響く音。暑さの中喉を潤した、あのラムネの味を思い出した。懐かしい、な。誰かの言葉を借りたわけじゃない、自然とそう溢れてきた気持ちが、不意に口をついて出てくる。


「懐かしい…、ですか?」
「いや、何でもない。……昨日、その、…ラムネをくれたこと…礼を言う」
「え、」


俺の言葉に目を丸くする女を見て、ふつふつと恥ずかしさが込み上げ思わず視線を逸らす。何だ俺は、馬鹿みたいではないか。一人で思い老けた挙句、独り言を呟き更に昨日のことで今さら礼を言うとは。どうしようもない羞恥心と、まともに礼も言えなかった自分の情けなさに堪らなくなり再び頭が痛くなる。こんなことを言うのは癪だが、こういう場面ではあいつの、高尾のコミュニケーション力が少しだけ羨ましくなる。こういう場面で、あいつのように素直に自分の気持ちを伝えることができたら、こんなに苦労することもないのだろうか。
どういう反応をしていいか分からず、かと言って感情任せに言葉を発してしまえばきっと棘のある言葉にしかならない。仕方なく無言で踵を返し再び歩き出すと、真ちゃん、と静かな声が背中へとかけられた。


「っだから、その呼び方はやめろと、」
「どういたしまして」
「……は、」


その言葉に思わず拍子抜けし、間抜けな声が出る。意味が分からず振り返れば、俺を見上げるその視線とぶつかり満面の笑みを浮かべられた。
全く分からない。こいつの考えていることも、礼を言われて嬉しそうに笑う意味も。この女といると、どうも調子が狂う。「あ、わたしの家ここら辺なんです。送ってくれてありがとう、真ちゃん」そう言ってカーブミラーのある二股の道で立ち止まり、女は笑って頭を下げた。


「だから真ちゃんはやめろと何度も、」
「明日も練習がんばってくださいね。お休みなさい」
「おい、人の話を、」


俺の言葉もそこそこに、女は踵を返して小走りに駆けていく。あまりのマイペースさに呆れて肩を落とすと、去っていく途中でそいつは振り返り俺へと大きく手を振った。仄暗い中でも、その顔が満面の笑顔であることが見て取れる。あの笑顔は苦手だ。怒る気力を無くすどころか、怒ることすら馬鹿らしくなって疲労感が押し寄せる。しかし、あの俺の名前の呼び方だけはせめてどうにかせねば。
疲れからか無意識に出てくる溜息をつき、ふと空を見上げる。その暗紫色の空に、小さな頃に教わった夏の大三角が見えた。田舎だからだろうか、東京にいたときよりも、ずっと星が明るく見える。こうして星を見たのも、いつぶりだっただろうか。生温い風を肺いっぱいに吸い込み、そして一気に吐くと不思議と身体が軽くなる。
たまにはこんな夜も悪くない。ふとそんなことを思った自分に、少しだけ照れ臭いようなくすぐったいような感覚を覚えた。




三日目 | 日暮れの帰り道にて。






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