昨日の夕方、やっとの思いで辿り着いた旅館は、使われていないにしては小綺麗に手が行き届いていた。そのおかげで、旅館に到着したらまず掃除をするという当初の予定が省け、気付けばいつの間にか皆眠っていたような覚えがある。そうして朝方キャプテンの怒号で起こされたと思ったら、高尾と二人、俺たちは玄関へと呼び出しを受けた。


「なんすか大坪さん。こんな朝から呼び出しなんてやめてくださいよ」
「緑間、高尾。お前らは買い出し組だ」
「は!なんで俺らが!」


お前らが一番最後に起きてきたからだ。ほかの奴らを見てみろ、さっさと起きてきたはいいが空腹で呻いているぞ。
隣の部屋から聞こえてきていた妙な音は呻き声だったのか。寝起きの回らない頭に高尾の馬鹿みたいな大声が響く。やはり昨日の時点で海に沈めておくべきだったな。ぼんやりと思いながら、壁に掛かっている時計を見ると、まだ8時を少し回った頃だった。こんな時間に空いている店がこの辺りにあるのかすら不安を覚えるが、まだ気温もそう上がっていない今のうちに行くのが利口だろう。そうとなれば、高尾は無理にでも連れて行かなければ。


「高尾、ごちゃごちゃと煩いぞ。さっさと支度をしろ」
「は?おいまじで行くの?」
「当たり前だろう。お前がいなくて誰が俺を運ぶというのだ」


ここまで来て俺にチャリ漕がせるのかよ!じゃんけんだろじゃんけん!おい!

蝉が、鳴いてる。玄関を出た瞬間、ふとそんなことを思った。今は夏だ、蝉が鳴くのは当たり前だろうと自嘲気味に笑うも、なぜか不思議な感覚に襲われた。この感覚は、なんだろう。知っているような気がするが、上手く言葉に表すことができない。
「真ちゃーん行くぞー」とのんびりした声に振り返ると、向日葵の咲く道で高尾が面倒臭そうに手招きをしている。せっかくの風景が台無しだ、と、大輪の鮮やかな黄色に目を向け、何となく複雑な気持ちになる。そういえば、こうして向日葵を間近で見たのは久しぶりのような気がする。昔は、向日葵の背丈を見上げるので精一杯だったのに、いつからこんなに小さくなってしまったのだろうか。しーんちゃーん!といつの間にか歩き始めていた高尾が、離れた場所から俺を呼ぶ。触れていた向日葵の花をそっと離すと、葉の擦れる音が小さく耳に届いたような気がした。


・・・



「おい高尾。のろいぞ、もっと早く進まないのか」
「ふざ…けん、な!こっちは、このクソ暑い中必死で、漕いで、」
「喋る暇があったら進め。暑い」


買い出しに行く俺たちにキャプテンから託されたのは、旅館の古びた自転車とリアカーだった。何故旅館に自転車とリアカーがあるのかは謎だったが、この暑さの中、30分以上歩くのは後の練習に響く。なので、高尾を連れてきてやはり正解だった。あの時点で海に沈めなかった選択は正しかったのだな。
監督の手描きらしい地図を開きながら、飛んでくる高尾の怒声を無視し溜息をつく。この道を下れば商店街に着くと監督は言っていたし、この地図もそれらしく描いてあるのだが、さっきから一向に商店のようなものが見えてくる気配がない。旅館を出てそろそろ30分経つのだが、果たして辿り着けるのか。


「あ!昨日の!」
「ん?あー、昨日の女の子じゃーん!偶然ー!」


強くなってきた日差しにとうとう嫌気が差し、もう一度溜息をつくと、急に高尾が浮かれたような声を出した。何事かと視線を投げると、リアカーが突然止まり思わずバランスを崩す。「真ちゃん!ほら、昨日の子」と嬉しそうに振り返った高尾に苛立ちながら指差された方を向くと、見覚えのある女の姿が道路の反対側に見えた。スカートの裾から覗いた膝に、二枚の絆創膏が貼ってある。確か、あいつは昨日の…。然程気にも留めていなかったため、一晩のうちに隅に追いやられていた記憶が蘇ってきた。途端に苛立ちと気まずさのようなものが込み上げ、無意識に眉間へと力が入る。全く、昨日といい今日といい、高尾と一緒にいるとろくな目に遭わないのだよ。


「またどこかお探しですか?」
「そう!買い出しに行きたいんだけどさー、ここらへんに商店街ってあんの?」
「え、商店街ですか!それなら結構前の角を曲がればすぐですよ!ここまで来るとお店なくなっちゃいますし」
「げー!まじかよ!!」


また迷われたんですね。そう言って可笑しそうに俺を見た女から目を逸らす。何でこいつはこんなに馴れ馴れしいのだ、ただでさえ高尾に腹が立っているのに、こういう態度の軽い奴が二人もいると俺の身が保たん。無言の俺を不思議そうな目で見たあと、女は高尾に「良かったら、またご案内します」と小さく笑い声をたてながら言う。それにすっかり気を良くしたのか、高尾が自転車を引っ張りながら歩き出し、あろうことか女の肩を抱き始めた。こいつは、何故こうも軽いのだろうか。苛立ちながら仕方なく俺も歩き出すと、振り返った女が安堵したように笑いかけてきた。意味が分からん。


「なぁ君、名前なんていうの?ここら辺の子?」
「なまえっていいます。近所に住んでて、買い物してたら偶然あなた方を見かけたもので」
「そうなんかー、俺は高尾。で、あっちの無愛想なのが真ちゃん」
「緑間だ。余計なことを吹き込むな、高尾」


緑間、真…? 真太郎だから真ちゃん、可愛いだろ! 高尾くんが愛称付けたんですか? そうそう、センスあるだろー!
意気揚々と前を歩く二人の会話に腹が立ち、突っ込む気さえ失せて黙々と歩く。時々振り返って俺の様子を伺う女の態度にすら腹立たしくなった。大体高尾、お前はリアカーで俺を運ぶ役割だろう。何故自転車を降りて歩いているのだ。


「お二人はどこから来たんですか?」
「東京!合宿で来たんだけどさ、道まったく分からねーから本当助かるわ!」
「いえいえ。あ、あの先に見える角を曲がったらすぐです」


女の指差した方を見ると、先ほどリアカーで通りすぎた細い道だった。何の変哲もない道だったため、こんな道に商店などないだろうと高を括っていた場所だ。先程までの自分を思い返したら本格的に頭痛がしてきて、腹の底から溜息が出る。こんなに暑い思いをして買い出しに出た挙句、道を間違え無駄足を踏むとはとんだ時間の浪費だ。
喋る気力すら失くし黙ったままの俺を、ふと女が振り返った。そのまま俺の様子を伺うと、何かを思い出したようにその手に持っていた袋を探り始める。「なまえちゃん、どしたん?」と高尾が尋ねると、嬉しそうに笑いながら女は二本のラムネを取り出した。


「これ、暑いから二人で飲んでください。まだ買ったばかりで冷えてるので」
「え、まじ?いいの?」
「はい。どうぞ、真ちゃんも」


……ちょっと待て。女、今なんて言った。
ラムネを受け取った高尾が、く、と小さく笑ったのが聞こえた。高尾お前、何を笑っている…。「せっかくくれるってんだから、貰っとけよ真ちゃん!」「高尾、貴様!面白がるのもいい加減に、」「まぁまぁ、そう怒るなって!」

なぁなまえちゃん!と女の肩を抱きながら、ニヤニヤといやらしく笑う高尾に思わず殺意が沸く。こいつ、相当海に沈めてほしいようだな。
「あの、」と困惑したような声に視線を向けると、高尾に捕まっている女がおろおろと俺を見ている。その手に持つラムネの瓶を見て、今度は一気に疲労感が押し寄せ思わず頭を抱えた。


「ラムネ、嫌いでした?」
「…いや、もういい。寄越すのだよ」
「おお、真ちゃんやっとデレたか。ずいぶん遅かったな」


からかう高尾を無視し、女の手からラムネを受け取る。それを見てようやく安心したように笑う女の意図が分からず、しかしそれを問い質す気力もなく俺は二人を置いて歩き出す。「あ、おい真ちゃん!」と慌てたように高尾の声が追いかけてくるが、聞こえなかったふりをした。


「じゃあ、わたしはここで」
「あ、サンキューななまえちゃん!ほら、真ちゃんもお礼!」
「そんな、お礼なんていいですよ。帰り道、気をつけてくださいね」


真ちゃんも。そう女の声が俺の背に投げかけられたが、振り返る理由もなく俺は黙って歩く。高尾がまたねと軽く挨拶をしたあと、自転車を引きながら小走りに俺に追いついてきた。そうして隣に並ぶなり、盛大な溜息をついて「真ちゃんさぁ、あの態度はねーだろ」と呆れたように俺を見上げる。
こいつはまた何を言い出すのだ。人の態度を指摘する前に、お前のあの軽い接し方を何とかすべきだろう。そもそも、俺はお前に指摘されるような態度をした覚えはない。一気にそう捲し立てると、高尾はもう一つ呆れた様子で溜息をついた。


「なまえちゃんだって困ってただろ。道案内してくれて、おまけにラムネまで貰ったんだぜ?お礼の一つくらい言っても良くね?」
「俺は別に頼んだ覚えはない。このラムネだってあの女が勝手に差し出してきたものだ」
「真ちゃん、ほんと素直じゃねーな」


お前に言われる筋合いはない。そう言いながら汗をかくラムネの蓋を開ける。結局飲むのかよ、高尾の意地の悪い声を無視しラムネを一口含んだ。喉を刺激する独特の感覚と、転がるビー玉の軽やかな音に不思議な感覚を覚えた。旅館を出るとき、蝉の声を聴いたときと同じ、言葉に言い表せない不思議な感覚。これは、何だろうか。


「ラムネか。懐かしいなー」
「……懐かしい?」
「小さい頃、夏になるとよく飲んでたんだよ。今じゃコンビニでペットボトルだけど、昔は近所の駄菓子屋とかで買ってさ、」


懐かしい、か。
そうだ、この不思議な感覚は、懐かしいという言葉がよく似合う。うまく言葉に表すことは出来ないけれど。日差しに反射するラムネの瓶に、ふと気持ちが緩む。懐かしむというのは、こんな感じなのか。開けてきた道の先に、見るからに傾きかけた店が見えてきた。不思議と悪い気はせず、飲みかけのラムネを一気に流し込む。炭酸の弾ける感覚と、心地良い冷たさに、不意に女の安堵した笑顔が思い浮かんだ。礼の一つくらい、か。機嫌良くラムネを飲んでいる隣の高尾を見ると、俺の視線に気がついたのか怪訝そうな表情を浮かべた。こいつの言うことに従うのは不服だが、いつか言う機会があったら、あの女にラムネの礼を言うとしようか。




二日目 | 傾いた商店前にて。







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