懐かしい匂いがした。愛しく、儚い時間だった気が、する。あれが何だったのか、夢だったのかすら、もう思い出せないのだけれど。



・・・




監督が二週間の合宿を言い渡したのは、七月も終わりに差し掛かった頃だった。今は使われていない旅館を持つ知り合いがいるらしく、八月の間貸してもらえることになったと、いつもからは考えられないほど意気揚々とした様子で体育館へと入ってきた。冬に開かれる大会に備えた基礎力の向上と、ちょっとした避暑も兼ねて、とのこと。避暑という言葉に真っ先に反応した高尾が、宮地先輩にすかさず蹴り飛ばされていたのをぼんやりと思い出す。
バスの中は空調が効きすぎていて、こんな場所に何時間も詰められていては逆に身体を悪くしそうだ。膝へと折り畳んであったジャージの上着を羽織ると、通路側の座席に座っていた高尾が大声で俺の名前を呼びながら窓の方へと身を乗り出す。


「真ちゃん見てみろよ!海!砂浜だぜ!」
「うるさいのだよ高尾。邪魔だ」
「すっげーな!東京じゃ砂浜なんて見れねーよ!うっわー感動!」


窓の外を見ろと高尾がしつこく、渋々そちらへ目を向けると、ちかりと反射した太陽の光が見えた。思わず目を細め海を見ると、そこには鮮やかな青色が広がり、どこか違う場所へ来てしまったのではないかと一瞬の錯覚を覚える。こんなに青い海を見たのは、一体いつ以来だっただろう。
すげーだろ、と得意そうに言う高尾の声にふと我に返り、曖昧に返事をすると奴は満足そうに頷いてようやく腰を下ろす。全く、16にもなる奴が海くらいではしゃぐなんて恥ずかしくないのか。呆れて溜息をつくと、「それにしてもさー、」と再び高尾が口を開いた。


「監督もひでーよな。今日から二週間の合宿で、東京に帰った次の日にはすぐ始業式だぜ。俺ら夏休みなんて全く無いじゃん」
「仕方ないのだよ。冬には大会もある。それはお前も知っているだろう」
「そうだけどさあ。俺だって健全な男子高校生なんだぜ真ちゃん。もっと夏らしいことしたかったなー」


文句があるなら帰れ、練習の邪魔だ。えーそりゃねーよ真ちゃん!
わざとらしく抱きついてくる高尾を避けていると、突如がくんとバスが揺れそのまま急停止する。隣で鈍い音がしたと思ったら、立ち上がっていたせいかバランスを崩した高尾が通路へと落下していた。自業自得なのだよ。
独特の噴射音を出しながら開くバスのドアに、キャプテンを始めとしたメンバーが騒然とする。「監督、どうしたんすか」と身体を起こしながら高尾が尋ねれば、中谷監督がのそりと座席から立ち上がり小さく咳払いをした。


「ここから宿舎まで徒歩だ」
「は?」
「徒歩だ」


徒歩。…徒歩?
はーーーー!?と高尾の大声が車内に響き渡った瞬間、宮地先輩の拳が奴の脳天に振り下ろされたのが視界の端に写った。再びゆっくりと座席に腰を下ろす監督に、キャプテンが慌てて駆け寄る。それもそのはずだ。周りを見渡してみても、あるのは海と山、そして点々と建つ民家のみ。こんな場所に降ろされては練習どころか合宿すら出来ない。監督は何を考えているんだ。


「宿舎はここから歩いて30分くらいの場所にある。そこまで送っていってやりたいが、生憎道路の整備があまりされていなくてな。バスが入るには少し厳しい場所らしい」
「だ…だからってこんな場所で」
「ちなみに、買い物はこの道を下っていくと商店街があるそうだ。合宿中は自炊するんだぞお前ら。俺は明日会議があるから今日は帰る」


しっかりやれよ。と言いながら、監督は呆然とするキャプテンに小さく折り畳んだ地図を手渡す。どう考えても手描きにしか見えないそれを受け取ったキャプテンは、のそりとバスを降りていく監督を慌てた様子で追いかけていった。重々しい空気が流れる車内に、宮地先輩の舌打ちがやけに大きく響く。


「まじかよ…」
「どうします宮地サン」
「どうしたもこうしたもねぇだろ。どのみち俺たちはここから宿舎まで歩いていかなきゃなんねぇんだ。このクソ暑い中」
「そっすよね…」


腹の底から出したような溜息をつきながら、宮地先輩は肩を落としながらバスを降りていく。俺も荷物台へと積んであったバッグを降ろし、未だ座り込んでいる高尾の横をすり抜けると、大きな溜息をついた高尾がのろのろと立ち上がった。そうして俺を見るなり「真ちゃん、俺ホントに帰りたいわ…」と情けない声を出した。
あえて返事をせずバスを降りると、むっとした空気が肺に流れ込み、思わず顔を背けたくなった。まだバスから降りてほんの数秒の筈なのに、じとりと背中に汗が滲むのが分かる。ああ、空調が効いているからとジャージを着たのが間違いだった。肩に下げていた荷物を一旦降ろし、上着を脱ぐと露出した腕に日差しの刺激を感じた。こんな場所で降ろされては、それこそ宿舎に着く前に倒れる奴が出そうではないか。


「つーか、ここどこだよ…。この地図適当すぎんだろ…」
「やめてくださいよ大坪サン。こんな猛暑の中野宿とか完璧死にますよ俺ら」


地図を持つキャプテンに続き歩き出したはいいものの、前を見ても後ろを見ても同じような道が続き、左右を見れば山と海に囲まれ正に八方塞がりの状態だった。監督が言っていた商店街に下りようにも、それらしき影も見えず、人一人として通らないため、迷ったらそれこそ一貫の終わりだ。先輩たちもそれを悟っているのか、来た道を戻ろうとはせず無言で前へと歩き始める。今日中に宿舎へ辿り着けるのだろうか、大会に備え一日でも無駄にするわけにはいかないのに。募る苛立ちを抑えようと黙々と歩いていると、後ろから突然高尾の慌てたような声が俺を追いかけてきた。


「おい真ちゃん!ちょっと待っ、」
「う、わぁ。あ痛っ」
「何だ、呼んだか高、尾…、」


……何だ、この俺の足元に転がっている女は。
あーあもう何やってんだよ真ちゃんはーとブツブツ言いながら、高尾が駆け寄ってきて足元の女を抱き起こす。…こいつ、いつから俺の傍にいた?というか、この女はなぜ倒れていたんだ。おい高尾、なんだその目は。


「真ちゃん、なに余所見してんだよ。ほら、この子にちゃんと謝らなきゃだめっしょ」
「謝る?なぜだ」
「は?真ちゃん気づかなかったのかよ!いま真ちゃんがぶつかってこの子転んだんだって!」


俺がぶつかった?そんな衝撃あっただろうか?いかん、暑さのせいでおかしくなっているのかもしれない。地面へと座り込む女の膝頭から、じわりと滲んだ血を見て思わず頭が痛くなった。こんなことをしている暇はないのに、俺は何をしているのだ。一刻も早く宿舎へと行かなければならないというのに。
高尾が女の怪我の手当てをし終わった頃合いを見て、俺は女へと手を差し出す。「あ、あの、」と困惑するそいつに少し苛立ちを覚え、無理矢理その腕を掴み立ち上がらせた。驚いたように小さく悲鳴を上げた女と、俺の名前を呼ぶ高尾の声に更に苛立ちが募る。


「怪我をさせたことは謝る。しかし俺たちはこんな場所で時間を潰しているほど暇ではないのだ。さっさと宿舎に着いて練習を、」
「あ、あの。もしかして県外からいらした方たちですか?わたしここら辺に住んでいるので、迷っているのでしたらご案内しますけど…」
「ほ、本当か!それは助かる!」


その言葉に、俺の後ろからキャプテンが身を乗り出し、持っていた地図を半ば押し付けるようにしてそいつへと見せる。あ、ここなら分かりますと笑顔で言った女に、高尾や宮地先輩が安堵の息を漏らしたのが分かった。不幸中の幸いとでも言ったところだろうか。俺が怪我をさせたことで状況が転じたというのが不服ではあるが。
行くぞ真ちゃんと俺の背中を押す高尾を振りほどきながら、キャプテンに道の説明をしながら歩く前の女の姿をちらりと見る。全く、合宿初日からとんだ無駄足だ。じとりと背に伝わる汗に不快感を覚える。額へと張り付く前髪を払った瞬間、側溝に躓いた高尾が俺の身体を思いきり押したせいで、前を歩いていた宮地先輩に突っ込んだ。先輩から脳天へと振り下ろされた拳の痛みに一瞬眩暈がする。高尾、お前ここで海に沈めてやろうか。





一日目 | とある道路沿いにて。







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