「ナマエ…ほんっっとにごめんね…」

「ヤ、ヤムさん!わたし大丈夫だからそんなに謝らないでくださ、げほっ」


頭がぼーっとする。びしょ濡れのわたしをお風呂に入れてくれた女官さんにそう言ったら、恐る恐るわたしの額に手を当てて彼女はひっくり返るんじゃないかってくらい驚いていた。どうやらあの雨でうっかり風邪を引いたらしい。どこからかその話を聞きつけたヤムさんが、わたしの部屋に来るなり物凄い勢いで謝るから、それを止めていたらとうとう声が枯れてきた。熱のせいかぼんやりする頭を必死で覚醒させ、わたしはヤムさんの顔を見る。


「ヤムさんのせいじゃないですよ。勝手に雨が降ってきて、わたしが勝手に濡れただけです」

「でも、私が頼みさえしなければ…」

「シンドリアを色々散策できたし、楽しかったですよ」


重い身体を起こしてヤムさんに笑いかけると、ヤムさんはしばらくグスグスとしていたけどようやく少しだけ笑ってくれた。よかったあ。身体にこもる熱で出てきた汗を拭っていると、ふと壁にかかった時計に目がいった。もう23時なんだ。


「ヤムさん。もう遅いし風邪うつしちゃうの嫌だから、お部屋に戻ってください」

「で、でも、ナマエを一人にするわけにはいかないし」

「大丈夫ですよ!こう見えてもわたし、身体だけは丈夫なんです!」


熱心なヤムさんのことだ。あの材料で今すぐにでも研究を始めたいはず。だったら尚のこと早く休んでもらわなきゃ。ヤムさんもひとつのことに夢中になると、周りが見えなくなっちゃうひとだから。
ヤムさんはわたしの促しに不本意そうながらも、とうとう観念したように折れてベッドへとわたしをそっと寝かしつけた。早く良くなってね、と言ってするりと頬を撫でてくれた綺麗な手が離れていく。優しいなあ、ヤムさん。
扉を閉めるまで何度も何度も振り返るヤムさんに、そのつど笑って手を振る。扉を閉める音がやけに躊躇いがちで、それが何だかおかしくて少し笑ってしまった。


「…あ、」


灯り、消さなきゃ。光る燭台を見てわたしは再び重い身体を起こした。うわ、ふらふらする。よろめきながらベッドから降りたとき、コンコンと部屋の扉を叩く音がした。あれ、ヤムさんかな?忘れ物でもしたんだろうか。
不思議に思って扉まで歩き、静かに開けようとしたところで不意にくらりと視界が揺れた。それに伴い開きかけの扉に全体重がかかり、勢いで前のめりになる。あ、あれ…わたし転ぶんじゃ、「ナマエさんっ、」


「…は、」


勢いよく開いた扉を抑えた手と、倒れこむはずだった廊下の絨毯が目下にあって、あれわたし転んでないと回らない頭で思う。次に、ふわりと香った柔らかな匂いに意識が徐々に清明になってきて、誰かに受け止めてもらったんだと気がついた。


「大丈夫ですか?」

「…あ、」


一体誰が。そう思って顔を上げようとしたとき、それよりも早く降ってきた声に思わず言葉を飲み込む。見上げた視線の先に映る穏やかな笑顔。…ジャーファルさん、だったんだ。
かああ、と顔が熱くなる。あ、あれ。何だこれ、熱のせいかな。


「今そこですれ違ったヤムライハから、ナマエさんが熱を出したと聞いたので心配で来てみたんですが…、間に合って良かったです」

「す、すみませ…!わたし重っ、ていうか風邪うつしちゃ…げほ、」

「ほら、大人しくしていないと」


慌てて出した声が咳と喉の痛みで掠れていて、恥ずかしくて口ごもったら見兼ねたジャーファルさんがわたしの肩に手を添える。くい、と引き寄せられてわたしを支えながら歩き出すジャーファルさんの顔を、まともに見ることができない。
いつもの官服とは違う、部屋着のせいで露出した綺麗な鎖骨が心臓に悪くて、目のやり場に困った。


「雨に濡れたのもそうですが、慣れない土地に来て疲れが溜まっていたんでしょう。気づけなくてすみません」

「そんなこと、」

「ちょっと待っていてくださいね」


ジャーファルさんはわたしをベッドまで運び、力の入らない身体を支えながら毛布の中へと沈めてくれた。枕の傍に置いてあったタオルで額の汗を拭ってくれたあと、にこりと笑い彼は一旦背を向ける。ベッドに寝かされたわたしは、否定する言葉を途中にしたまま、氷の入った水を注ぐジャーファルさんの背中を見つめた。あ、薬を持ってきてくれたんだ…。


「すぐじゃなくてもいいので、飲めそうだったら飲んでくださいね。今は怠いでしょう」

「…すみません」

「熱はどうですか?」


わたしの前髪をかきわけ額に触れるジャーファルさんの、少し冷たい手。華奢なのにやっぱり彼は紛れもない男の人で、わたしの額なんて軽く覆ってしまう大きな手に心臓が掻き乱される不思議な感じがした。はあ、心臓に悪い…。ぎゅう、と目を閉じてジャーファルさんの手が離れていくのを待つ。熱、余計に上がりそうだ。


「まだ高いですね。辛いでしょう、何か欲しいものがあればお持ちしますよ」

「え、いや、あの」

「果物でも用意しましょうか」


ジャーファルさん、行っちゃうの。知らずうちにそう思っていた自分に驚いて、言葉を噤む。だ、だめだ。ジャーファルさんは忙しいひとだし、何より風邪をうつすわけには…。
ぐるぐると考えていると、額のジャーファルさんの手が離れていく。触れられたところが妙に熱くて、それが何故か心地よくて、名残惜しさにまた目眩がする。まだここにいてほしい。でも、迷惑をかけちゃいけない。


「…だ、大丈夫です!ジャーファルさんに風邪うつしたら嫌だし、もう遅いからお部屋に戻ってくださ、」

「ヤムライハにもそう言ったでしょう。身体を壊している方を目の前にして、戻れと言われてもできるわけがありませんよ」

「で、でも」


少しだけ怒るような口調で言われて、言い返す言葉が見つからなくて黙ったら、何だか悲しくなってきてジャーファルさんから目を逸らす。だってあんなに迷惑かけて、看病までさせちゃうなんて。そんなの、申し訳なさすぎるよ。
わたしの気持ちを読み取ったかのように、ジャーファルさんは少し黙ってから小さく溜息をついた。そして軽く髪を撫でてくれて、さっきとは違う柔らかな声音で言う。


「看病しかできませんが、病気のときくらい頼ってください」


全然そんなこと、ないのに。ジャーファルさんの優しさと、迷惑ばかりかけてしまう自分の不甲斐なさに泣けてきて毛布に潜り込んだら、ジャーファルさんがそっと笑うのに気がついた。ばれちゃった。頼っても、いいのかな。やっぱり申し訳ないな。でも、ジャーファルさんが本当にいいのなら、ひとつだけ。
ひとつだけ、お願いしてもいいですか。涙で余計に掠れた声で呟くと、何なりと、と優しい声が毛布の外から降ってくる。


「わたしが眠るまででいいから、傍にいてください」


身体が弱っているとき、何故こうも人の優しさが恋しくなるんだろう。それを一番迷惑をかけたくないひとにぶつけてしまうなんて。
相変わらず毛布にくるまって泣いている失礼なわたしに、ジャーファルさんは怒ることもせずベッドの端へと腰掛ける。沈むベッドがジャーファルさんの了承を意味していて、申し訳なさに苛まされていたらふとわたしの手を包む体温で我に返る。それがジャーファルさんの手だと分かるまでに、そう時間はかからなかった。


「ゆっくり休んでください」


驚いて毛布から顔を出すと、ジャーファルさんが微笑んでいて。じわりと滲んだ涙を隠しきれなくて、ぽろぽろと頬を伝って落ちていく。それを見ても何も言わず髪を撫でて、手を握ってくれるジャーファルさんに、余計に涙が出てきた。
ああわたし、このひとが好きなんだ。一緒にいて嬉しいのも、心地良いのも、全部このひとのことが好きだから。
でも、わたしなんかがジャーファルさんを好きになるなんてだめなんだ。わたしは食客で、ジャーファルさんは国を担う大事なひと。あまりにも立場が違いすぎる。突きつけられた現実が思うよりも辛くて涙が次々と溢れ出る。それを咎めることなく丁寧に拭ってくれるジャーファルさんが愛おしいと、気づくには遅すぎたのかもしれない。

彼の優しさが嬉しくて幸せで、少しだけ痛いと感じた、雨の日の夜のこと。








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