あれは忘れもしない高一の夏。砂月は大切な人を失った。砂月の双子の兄、那月。生まれてから何処に行くにもずっと一緒にいた、自分の半身とも呼べるくらい砂月にとって大事な存在。誰にでも優しい那月を砂月は尊敬する程に、時には出来すぎた兄だと思うこともあった。それくらい大切だった、失いたくなかった。

I was only afraid of losing you.

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蝉が五月蝿い八月半ば、夏休み真っ最中のことだった。夏休みと云うことで冷えた部屋に居てばかりは身体に良くない、と砂月は那月に半ば強制的に連れられて外出をしていた。可愛いものが大好きな那月は水族館に行く計画を経て、近場の水族館に行くことになった。冷えた水族館は心地よく、砂月は悪い気はしなかった。イルカショーやペンギンを見て楽しそうにはしゃぐ那月を見て来て良かったとすら思える程。二人暮らし故に仲のいい双子は周りから見れば微笑ましい光景だったに違いない。
袋からはみだす程たくさんの人形を土産屋で買い占めて笑う那月を砂月は鮮明に覚えていた。目を離せばふらりと消える那月を心配して自らその荷物を持ったことも。だが平和な時はそこまでだった。
思った通りふらりと消えた那月。大方ショーウィンドウに写る可愛いものが目に入って立ち止まっているに違いない。辺りを少し探せば案の定ショーウィンドウに並べられたら色とりどりの人形に釘付けになっていた那月がいた。

「おい那月」

帰るぞ、そう言おうとした時肩に何かが当たった。この人混みなのだ、避けきれず当たってしまったのだろうと振り向けばいかにも柄の悪そうな男が砂月を見ていた。いや睨んでいたという方が正しい。しかも男は一人ではなく、数人という実に面倒な事態だった。

「おいお前、当たったらごめんなさいだろ?」

一人の男が砂月を馬鹿にしたような態度で言った。たちまち砂月を数人の男達が囲む。そんな時、砂月の喧嘩っ早い性格が災いした。男のその言葉が頭にきた砂月は持っていた荷物を乱暴に置いてその男を思い切りぶん殴ったのである。すぐ異変に気づいた那月はその集団に近づくも不穏な雰囲気に近寄れずただおろおろとしているばかり。喧嘩では負け知らずだった砂月は次々と男を殴っていく。その時砂月に殴られた反動で一人の男がバランスを崩した。体制を立て直せず崩れ落ちたその先には唖然とした那月がいた。

「那月!」

砂月が叫んだ瞬間、男に押された衝撃でよろけた那月はすぐ後ろの道路に出された。それだけなら良かった。その横から那月目掛けてキュウウゥと急ブレーキをかけた車が横切った。砂月にはそれがまるでスローモーションに見えた。ふらり、倒れる那月に砂月はありったけの力で手を伸ばした。それさえもスローモーションだった。だがその手は届かず、気づいた時には遠くに投げ出された那月がぐったりと横たわっていた。男達はその光景を見てまずいと思ったのか、一目散に逃げ出していった。

「なつ、き…?」

一方砂月は突然のことに頭がついて行けず、那月に駆け寄ることも出来ずにいた。我に帰ったのは人が叫ぶ声と救急車のサイレン。それがやけに耳に残った。砂月はガタガタと、震えていた。

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「四ノ宮那月」と書かれた手書きのプレートの部屋に音もなく入る。薬品の匂いが鼻をつく。死んだように眠る那月が砂月を迎えた。あれから流れるように事は過ぎていった。あの時傍にいた人間が救急車を呼んでいなければ今頃どうなっていたのだろうと、砂月の頭をよぎる。幸い那月は頭に衝撃を受けたものの、脳に損傷は無いという。砂月は安心したと同時に涙が溢れた。柄にも無く医者の前で思い切り泣いてしまった。

「…那月」

名前を呼んでも帰ってくることはない。あれから一週間那月が目覚めることはなかった。那月は確かに生きている。ただ眠っているだけ。砂月はあの日のことを思い出した。あの日、あんな些細なことで俺が喧嘩なんてしなければ那月はこんな目に会わなかったはずだ。砂月の頭には後悔と懺悔だけがひたすら交差していた。那月を見る度思い出してしまうあの瞬間、あの時俺は何をしてた?肩がぶつかっただけ、ただそれだけで那月を巻き込んだ。こんな風にしてしまった。那月が起きたらどんな顔して会えばいいのか、なんて声をかければいいのか、砂月はそれさえも考えつかない。
分かっているのだ、那月は怒らないことくらい。きっと「さっちゃんのせいじゃないよ」って笑ってくれる。だけど駄目なんだ。そんなことを言われたら俺は那月に甘えてしまう。

「ごめんな…那月」

聞いてるはずもないのに、砂月は呟いた。もう謝ることしか出来ない。そんな自分が殺してしまいたいくらい憎かった。静かに眠る那月に近づこうと一歩歩むと、病室のドアがコンコンとノックされた。「はい」とドア越しに返事をすると看護士が入ってきた。

「四ノ宮さんと話したいと言う人がいるのですが…」

俺に?誰だろうか、知り合いか?砂月は那月の頭をそっと撫でて病室を後にした。


言われるがままに病院を出ると、一人の小太りな男が立っていた。首もとや手首には金のアクセサリーをギラギラと光らせて指には何カラットかも分からない指輪をいくつもはめている。見覚えが全く無い、と思った砂月は警戒の意を含めて睨むと男は「おやおや」といった様子で笑った。

「君だよね?私の車を傷つけてくれたのは」
「は?」

何を言いだすかと思えば知らない人間相手になんだこいつは。砂月は咄嗟に言葉を返した。

「いやぁあの時は驚いたよ。眼鏡の子、大丈夫?」

どうやらこの男が那月をひいた本人のようだ。悪気は無いにしてもそれを知った砂月は怒りを静かに高ぶらせた。こいつが、那月を。そう思った時、素直に怒りをぶつけられなかった。那月をあんな目にしたのは俺じゃないか。それを思い出してしまえば何も言えなくなってしまった。

「それでね、私の車傷がついちゃって今は修理に出しているところなんだけど…」

男は淡々と話す。砂月は一体何が言いたいのだろうと黙って聞いていた。

「修理に600万、掛かるんだよね」

その数字に唖然とした砂月だが、別にそれを知らされて自分がどうこうするわけでない。だがそれを言いに来ただけではなかった。男はポケットから煙草とライターを取り出し、慣れた手つきで火をつけて口に挟むと、ふう、と吹いて改めて砂月を見る。肺を直接刺激するような煙の匂いに砂月の顔が歪んだ。

「私が悪いわけではないし、勿論君が払ってくれるよね?」

辺りを漂う煙が砂月を通り過ぎた。

「何言ってんだ?こっちは被害者なんだぞ?なんで俺がそんなこと…」
「私だって心苦しいとは思っているよ」

男はにたりと笑う。そんなこと微塵も思ってない癖に。砂月は男を殴ってやりたくなった。震える拳を爪が食い込む程握りしめて必死に抑える。大体600万なんて学生が払える金額ではない。持っていたとしてもはいどうぞ、なんて軽々しく渡せる金額ではないというのに。

「直ぐにとは言わない、確か君は今高校一年生だったね。卒業するまでに払ってくれればいいよ」

男はどこから出したのか請求書を砂月に差し出した。片手にはペンも用意されていて、砂月にはもう逃げ場がなかった。言われるがままに「四ノ宮砂月」とサインし、住所、携帯番号など書いたと同時に男は満足げに笑い帰って行った。これから俺はどうなるんだろうと砂月は必死に考えた。

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凄まじい金額を一気に背負った砂月に、またひとつ悲劇が起こった。病院に戻ると看護士が砂月を探していたようで「すぐに来てください」とアナウンスが流れる。那月の病室に入ると主治医が立っていた。その後ろには眠ってなどいない、あの那月が砂月を見てベッドから起き上がっていた。

「那月…!」

喜びのあまり駆け寄ろうとする砂月を医師は止めた。何でだよ、会わせてくれよ、喋らせてくれ。そう叫んでも医師は顔を横に振るだけで那月に近寄らせてくれないのだ。目の前に那月がいるのに、なんで。医師は砂月を連れて病室から出た。

「那月さんに会う覚悟がありますか」

その言葉を今の砂月には考える余裕などなかった。

「いいから会わせてくれよ!!」

取り乱す砂月をもう止めても無駄だと分かった医師は俯いてその場を去っていった。直ぐに砂月は病室に入った。那月はただ無表情で、何も口にしない。この違和感に砂月は戸惑った。どうして何も言わないんだ?突然のことで混乱しているのかもしれない、そう思った砂月は那月に近づいて手を握った。そこまでだった、砂月と那月の関係は。次の那月の発した言葉に砂月はただ、立ち止まることしか出来なかった。

「あの…どちらさま、でしょうか?」

ここで砂月はやっと医師の言葉を理解することができた。那月は全てを、忘れていた。このことに砂月は問い詰めることを一切しなかった。いや、出来なかった。那月に悪気は無い、そう思いたいのに。

砂月が失ったのは那月との今までの時間全部だった。


〜20120405