text | ナノ



「高杉、約束してほしい」


なまえの前には面白そうな顔をしてキセルを吹かす高杉がいる。
ひとまずびしっと指を突きつけた。


「ひとつ、代金はしっかり頂きます。ぼったくろうとしたこと謝って」


ニヒルな表情でじーっと見てくる視線に耐えきれなくなったなまえは、指だけ高杉に向けた。


「ふたつ、金輪際わたしに近づかないで」


威勢良く言い始めたはいいが、けっきょく尻すぼみとなってしまった。
近づか、までは聞こえただろう。しかし、ないで、はなまえ自身にも聞こえなかったくらいだ。
それが可笑しかったのか、高杉が喉でくつくつと笑い始めたから是が非でも逃げ出したくなった。
が、それも許されない此処は屋形船の上である。
外を見渡せば建物は見えるが、下は真っ暗な水が広がっている。夜の川はどこまでも深く果てしなく見え、よほどのものが後ろに迫ってこない限り飛び込むことはしたくない。……今のこの状況は、よほどのものに分別してしまいたいが。

逸らしていた目を高杉に戻すと、相も変わらず面白そうな顔をしていた。
初対面の人がみたらひどく怖く恐ろしげに見える顔。
だが、暫く高杉の傍にいたなまえには、それはからかうのを今か今かと待ち構えている表情にしか見えない。
あまりにも楽しそうに笑う悪意に満ちたその表情に絶句し、なまえは高杉から少しずつ距離を取った。
最初よりかなり遠くなった距離をみて高杉は声に出して笑った。


「なに警戒してんだ」

「どの口がものをいうんだか!あんた私に何しようとしたか覚えてる?!」

「まあな。口に出して言ってやっても…」

「や、や、それは言わんでよろしい」


高杉はにやりと笑いながらなまえに向かってゆっくりと歩いた。
距離にして数メートルとない。それでも精一杯に離れていったなまえが可笑しくてたまらない。
そんなにも動揺することだったか、まあするかもしれねーな、それを判ってわざわざ行動を取ったのは自分だ。
警戒されても文句は言えねーが引く気も毛頭ないと高杉は、じわりじわりと余裕の表情でなまえとの距離を詰める。
当然、なまえは高杉の行動に驚き、全力で抗議する。


「ちょ、待て待て!金輪際近づかないって約束したじゃん!」

「約束ってのは両者の同意のもとの結合であって、俺ァ同意したつもりはねーよ。あれはただの提示に過ぎねェ」

とたんに罵詈雑言を浴びせ始めたなまえに、「悪かったな」と高杉は武器代全額入った封筒をぽんっと投げた。
少し意表を突かれたが、なまえは急いでそれを掴んだ。
中身をしっかり確認してから既に目の前にきてしまった高杉を睨みつける。
考え無しに部屋の端っこにいたなまえは逃げ場が無く、自分の行動を呪いつつ同時に高杉も呪った。


「…これ以上近づいたらいい加減許さないからね」

「別に許してもらうつもりもねーから好きにしろよ」

「………大声で叫んだら万斉さんとか来るよ」

「期待に沿えねえで悪ィがアイツ等はこの船にゃ乗ってねェ。誰に気を使ったのかは知らねーがなァ」


なまえは、確実にアンタにでしょと吐き捨てた。
顔にべったりと張り付いた、にやりという笑みが小憎たらしくてしょうがない。
この際売っ払った商品すべて奪って逃げてしまおうかとも考えてみた。
だが此処はめったにない絶好の大口取引先だ。そんなことしたら此処との縁はばっさり切れる。
手放すにはあまりにも惜しい。
顔にすっと近づいてくる手を払い、高杉を見据えた。


「…それは遊び?本気?」

「どっちがいい」

「からかってるでしょ」

「まァな」


再び伸びてきた手を今度は払わない。
そのままに顎を掬われ強制的に両者の目があった。
相変わらず嫌そうではあるものの頬がほんのり赤みを帯びている表情と、相も変わらず楽しげな余裕綽々とした表情。
余裕な方の親指が、嫌そうな方の唇へすっとあてがわれる。
左右へ何度か往復している間、なまえは高杉の口元をずっと眺めていた。

出会ったのは偶然だ。
仕事を済ませてから裏町を歩いていたところで坊主、と後ろから声を掛けられた。
振り向く前に背中に冷たいものを感じ、前を向いたまま唾を飲む。
そのままの体勢で「武器はなにを扱っている」と言われたもんだから驚いた。
どうやら取引していたところを見られていたらしい。
してやられたと思ったが、命の危険は免れたと感じ、すぐさま「なんでも」と答えた。

この5分後に高杉はなまえが女であると気づき、その1年後が今なのだ。
そして今より3日前に高杉に寝込みを襲われそうになり、今の状況へと至る。


そもそも自分にその気がなかったと言えば嘘になるとなまえは思った。ただ不意をつかれただけだ。
この世界で生きてきたら嫌なことの一つや二つされた経験はあるもので、それを敬遠するためにわざわざ男の恰好をし武器商人をやってきたほどだ。
人に触れられるのにはまだ少し恐怖が残っているくらいに記憶は浅い。
だから余計に高杉に触れられそうになった時には焦って突き飛ばしてしまった。

しかし今、特に嫌でもないことになまえは改めて気がついた。
いつこの男をこんなにも信用してしまったのかは全く分からないが、いつの間にか心を預けてもいいほどに信用していたらしい。
高杉を突き飛ばしたのは不意打ちの焦り、さっきまで高杉を傍に寄せたくなかったのは突き飛ばしたことへの負い目であった。

なまえは自嘲の笑いを浮かべて高杉を見つめると、高杉の顔がゆっくりと近づいた。
思わず目を瞑ってしばらくしても、一向になにも来ない。
恐る恐る目を開ければ楽しそうに笑っている高杉の顔があった。


「…なによ」

「いや、なァ?今日は突き飛ばさねーんだなと思ってよ」

「…からかったな!?」

「して欲しかったか?」

「や、いや、それもアレだけど…」


次の言葉が続く前に高杉によってなまえの唇は塞がれた。
せめてもの悔し紛れかなまえは高杉の唇に噛みつこうとしたが、それはどうやら先を越されたようだ。




建前の誓いを破る/20100918