山肌が雪解け始め、温かい日が続くようになった。
陽気に誘われるように新芽も顔を出し始めている。
凍えるようだった風がいつの間にか包みこまれる様な春風に変わり季節が移ろいゆく速さに思わずため息が出た。
甲斐でもそろそろ梅の花が咲くだろう。
屋敷の屋根の上でまだ蕾ばかりの梅の木を眺めながら目を細め、頬杖をつく。
「はー…」
真樹緒が攫われてからどれぐらいが過ぎただろう。
予定では今頃尾張に向けて出立しているはずなのに、未だ俺様達は躑躅ヶ崎館を動けずにいる。
理由はまぁ、色々あって。
尾張にいると思っていた真樹緒が実は尾張にいないって事だったり。
じゃあ真樹緒はどこにいるんだって事だったり。
本願寺に向かった魔王が思っていたよりも早く宗主を討ち取った事だったり。
その魔王に明智光秀が従軍してたって事だったり。
「はー…」
そして何より。
「避けるんじゃないよ梵。」
「Shit!てめぇ目が据わってんだよ成実…!」
「何言ってるの、俺すごく落ち着いてるんだから。」
そう。
落ち着いてるの俺。
真樹緒が明智光秀に斬られて、攫われたって書が届いた時はそりゃぁうちの道場を建て直さなきゃいけないぐらいは暴れたけどさぁ。
鬼庭殿が本気で止めるぐらいは暴れたけどさぁ。
ここに来るまでにそれはそれは心を静めて来たんだよ俺。
なのにそんな事言うなんてひどいじゃない。
「どこがだてめぇ…!」
「ねぇ、梵。」
真樹緒が攫われたってのに、一人で部屋に閉じ籠ってたって聞いたよ。
閉じ籠って、誰の声も聞かず自分一人だけ悲壮に暮れてたって言うじゃない。
何してんの。
何一人で格好つけてるの。
そういう時はすぐ追いかけるんだよ馬鹿。
「ぐ、」
「大人しくお縄につきな。」
「シィーット!!」
……
………
何て言うか。
奥州のお母さんがやってきちゃったんだよねー、これが。
やってきて独眼竜に一直線。
武器持って襲いかかったんだよ。
驚いたのなんのって。
右目の旦那だって暫く固まって動かなかったんだから。
「はー…」
三回目の溜息は心なしか一番深い。
大きくゆっくり息を吐き切って庭で暴れる二人を見下ろした。
成実殿に書を送ったのは俺達が真樹緒を追おうと意を固めた日で。
ほら、真樹緒が言うには勝手に城を出たらしいじゃない。
少しでも近況をっていう旦那の厚意だったんだけど、それが十二分に裏目に出たんだよねー。
ついさっき。
本当についさっき成実殿がやってこられた訳だ。
独眼竜には全くお気の毒様だと言うほかない。
「それにしても…」
右でついていた頬杖を左に変えて、出そうになった溜息を飲み込んだ。
飲み込んで飲み込んで、飲み込んで。
でもやっぱり少し息が漏れてしまって自己嫌悪。
ここに真樹緒がいたら「幸せがにげるよさっちゃん」と怒られてしまいそうだ。
「……」
真樹緒、真樹緒、ねぇお前どこにいるの。
さっちゃんだって心配なんだよ。
独眼竜だけがお前の事を思ってるだけじゃないんだよ。
俺様だって、旦那だって、右目の旦那だって、勿論大将だってお前の事を思ってる。
明智光秀と一緒にいるの。
それとも魔王の元に捕えられてるの。
もしかして明智光秀に捕まった後、どこかに放り出されたの。
色々な事が頭を巡る。
元気にしてるの。
真樹緒がいないと屋敷が静かでしょうがないよ。
「真樹緒…」
すぐに追いかけるんだよ、と言う成実殿の言葉は俺達も耳が痛い。
情報が錯綜しているとはいえ、ここで足踏みしているのが現状なんだから。
「お、落ち着いて下さいませ成実殿…!」
政宗殿へは某が何度も忠言させて頂きました故、ここはどうか…!
政宗殿の首が締まっておりまする…!!
顔色も益々もって土気色に…!
これではいつか息の根が…!
「あら、真田殿。」
あらあら真田殿。
この度はうちの梵が本当ご迷惑をかけて。
どうも悪かったねぇ、他所様のうちで気も使えない子で。
「…あっは、こわーい。」
旦那が顔を引き攣らせてる。
そう言えば真樹緒がよく言ってたけど奥州のお母さんは怒ったら怖いって、あれって本当だったんだねぇ。
俺様流石に笑顔で旦那の首は締めれないや。
流石に。
立ち上がって伸びをして、見下ろした庭はそんなはずは無いのに何だか賑やかで穏やかで。
張っていた気がゆるゆるとほぐれて行く。
真樹緒を取り戻そうと焦っていた屋敷中の空気まで飲み込んでしまう。
「俺様もしっかりしないとねー。」
これからなんだ何もかも。
真樹緒を探すのも、魔王と対峙するのも、天下が動くのも。
伸ばした手をそのまま頭の後ろで組んで空を見上げた。
高く高くにある空は真樹緒がここにやって来た日と何ら変わりなく青い。
日が眩しくて吸い込まれそうだ。
「…さぁ、そろそろ旦那を助けてあげますかー。」
弱気な自分を叱咤する様に両手で顔を叩いて、相変わらず成実殿の笑顔に顔をひきつらせている旦那を見下ろした。
成実殿は縄標で独眼竜を文字通りお縄につけている。
その独眼竜は独眼竜でそろそろ息の根止まりそうだけど。
……
………
結構容赦が無いよね伊達さん。
何となく分かってたけどさ。
「旦那―、大丈…」
屋根を下りて、そんな何とも言えない雰囲気の中固まってる旦那に声をかけようとした時だった。
背後を風が吹き抜けたのは。
血の臭いが辺りに漂ったのは。
「え…?」
「忍!風魔を止めろ!」
「右目の旦那?え?風魔?」
「Ah!?意識が戻ったのか!?」
右目の旦那の声が聞こえて振り返る。
独眼竜と同じような事を考えながら頭を上げて。
大きな風のうねりに巻き込まれて思わず両手で顔を覆った。
もう一度屋敷の屋根に飛び上がれば目の前を覆いつくすように黒い羽が舞っている。
そこには寝たきりでいるはずの風魔が。
「…あんた。」
「(…)」
下から独眼竜の声が聞こえた。
「風魔!下りて来い!」
真樹緒の事で聞きたい事がある!
そんな声にも目の前の風魔は動じない。
「風魔!」
てめぇ、今動けば傷が開くぞ!
大人しく床に戻れ!
右目の旦那の声だって。
「…何してるのあんた。」
臓腑をえぐられるような怪我は二日三日で治るようなものじゃなかったはずだよ。
手や足も麻痺していたくせに。
右目の旦那の言う通りだ。
動くだけでも辛いだろう。
それなのに何してるの。
「(…)」
ちらりと寄越した視線はひどく痛い。
怒り、悔い、そんなものが鋭く尖って俺様に突き刺さる。
放っておけと放たれるのは身を斬るような殺気。
……ああ、あんた。
真樹緒の事を、
「(しゅっ)」
「ちょっ…!」
苦無を投げて風魔は踵を返した。
怪我なんて本当にしているのかと疑いたくなるような身のこなしで。
さっさと捕まえろ猿!なんて独眼竜が叫んでいるけど、そんなに簡単に言わないで欲しいね。
近づこうものならその殺気で斬り殺されそうだよ俺様。
「真樹緒を追うつもりなんだろうけど、」
「(しゅしゅしゅ!)」
「っあんたねぇ!話を聞けよ!」
投げられた苦無を受け止めて投げ返してやった。
結構本気だったのに難なく全て止められてしまったのが癪に障る。
分かってるよあんたの考えてる事ぐらい。
真樹緒が心配で、真樹緒を傷つけた明智光秀が憎くて、真樹緒を守れなかった己が不甲斐無くて仕様が無いんだろう。
そんな事痛い位分かってる。
ただね、そう思ってるのはあんただけじゃないよ俺様達だって。
睨んでやれば殺気が更に膨らんで思わず体が押されそうになる。
そうして風魔が今にも飛んで行きそうになった時。
身を翻しその姿を消しそうになった時。
「風魔。」
下から声が。
「風魔、おいで。」
伊達さんの声が。
「風魔。」
「(…………、)」
「おいで。」
「(…しゅた。)」
そしたらどうだろう。
あんなに放っていた殺気を僅かも残さず綺麗さっぱり消して、風魔は静かに伊達さんの前に下りた。
申し訳なさそうに首を垂れ、まるでごめんなさいとでも言うように黒い羽を舞わせ。
「真樹緒の所に行くの?」
「(こくり)」
「どこにいるか分からないんだよ。」
それでも行くの。
「(……、こくり)」
「そう。」
伊達さんの手が風魔の頭を撫ぜた。
優しく優しく慰めるように。
「お前、怪我してるくせに」と、伊達さんの声が聞こえてくる。
やっぱり優しい優しい声だった。
「真樹緒を庇ったんだって。」
「(…)」
「………その分は真樹緒に会って怒られるといいよ。」
すこん、と撫ぜていた伊達さんの手が真っすぐに伸びて今度は風魔の額に軽く当たった。
これは俺に心配をかけた分だよ。
真樹緒と二人、お前達は本当に俺に心配ばかりかけてくれるよね。
そう言って伊達さんが笑う。
大人しくその手を許す風魔に目を丸くしたのは俺と旦那だけで、独眼竜とその右目の旦那は溜息を吐いて穏やかに。
あらまぁ、と覗き込んでいれば「お忍び君、ちょっと」と手招きされる。
「え、何。」
「梵や真田殿も、もちろん小十郎も聞いて。」
俺がここに来たのはさ、梵に一喝入れるためってのもあるけど。
一つ、気になる報告が入っててさ。
「Ah―?魔王の事か?」
「うん。」
どうやら織田信長は本願寺を落とした後本能寺に向かうらしい。
本能寺を拠点に次の戦に向かうのかは不明だ。
目的は分からない。
魔王の天下布武はとてつもない勢いで広がっている。
畿内平定のために本腰を上げたのかもしれない。
いずれにせよ。
「真樹緒は明智光秀と共にいると思う。」
そこに魔王の影があろうともなかろうとも。
尾張に居ないのなら近江か本能寺だ。
近江には明智光秀の屋敷がある。
もしくは明智光秀と共に本能寺に連れて行かれているかもしれない。
「Ha!死神と魔王か揃い踏みか!」
いいじゃねぇか。
明智には積もる話もあるからなァ。
この六爪で是非とも語りあいたいもんだぜ。
「政宗様。」
その様に猛進されてはなりません。
右目の旦那の諌める声が聞こえて。
「風魔。」
「(こくん)」
伊達さんが息をつくと風魔が黒い羽を残して消えた。
気配を追えばあれは近江の方向で。
「佐助。」
「はいはーい、っと。」
静かに話を聞いていた旦那が振り返る。
そして強い強い目で俺を見た。
言葉少なに俺の名を呼んで。
「お館様には俺から申し上げておく。」
「了解。」
分かってる。
俺様は風魔を追うよ。
無茶なこーちゃんが無茶をしたら、真樹緒が泣いてしまうかもしれないから。
真樹緒の涙は見たくないんだ、俺様。
「旦那も気をつけて。」
「無論!」
きっと旦那や独眼竜達は本願寺へ向かうんだろう。
死神と魔王に対峙しに。
そんな皆の元へ真樹緒を見つけたと報告が出来ればいい。
屋根を駆けて木の上を飛んで、すぐに赤い髪が見えた。
追いつこうと足を速めれば、目の前の背中がすぐに遠ざかる。
本当は走るのだって飛ぶのだって辛いくせに。
思わず喉が鳴った。
喉が鳴って顔が緩む。
「やーな、かんじー。」
ねぇ、真樹緒。
真樹緒のこーちゃんさ、真樹緒の為に無理なんかするんだよどう思う。
怪我だってやっと塞がったところなのにさ。
ねぇ、真樹緒。
今度会ったらこーちゃんをうんと叱ってやってよね。
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おシゲちゃんがきちゃった。
(全然全くそんな予定は無かったのにノートでは)
時系列的には明智の光秀さんが本願寺を落とした後、か直後ぐらいです。
久しぶりの政宗様達にわたしがどうしようかオロオロしましたぬん…!
小太郎さんはおシゲちゃんの言うことなら結構きいてくれます。
お母さんだから…!
「俺が呼んでも来ねぇくせに何で成実が呼んだら来るんだあいつ。」
「え、奥州のお母さんだからでしょ。」
ってゆう筆頭とのやり取りが本編で入らなかったのでここに入れてみます(笑)
次回はキネマ主サイド。
障子は多分もう直っています。
今はお習字しているのではないでしょうか。
そしてさっちゃんや小太郎さんより先にあの子がきます。
そして明智の光秀さんも帰ってきます。
お土産楽しみですね!
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