「まァァァァだ落ちぬかァ!!」
辺りに怒号が響き渡り、地面が僅か戦慄いた。
床几に腰を据えたまま高台にある本願寺を睨みつけ、ともすれば控える兵が失神でもしそうな程の覇気を放っている。
その顔は成程、魔王の名に相応しい。
「…焦れていますね。」
さて、中々我慢が苦手な主はどう出るのでしょうか。
主は半刻程前からすこぶる機嫌が悪い。
石山本願寺を攻め入るため、早々に落とした摂津に陣を張り水運の拠点を奪ったのは今朝方の事で。
さあ次は大本をと本願寺に兵をやったまではよかったのですが。
何時まで経っても音沙汰の無い本願寺に業を煮やして主がいきり立って参りました。
宗主顕如はそれ程の手練とも聞き及んでいません。
何しろ私の鎌が一度も奮えていないのですから。
このまま籠城されてしまうと更に主の機嫌が悪くなる事は必至。
火の粉が少なからずこちらにもけぶってくるというもの。
そうなればあれの土産を買う暇も無くなりますし。
「………」
ふ、
私は何を。
一体何を言っているのでしょう。
仮にも戦場で。
「ふふふ…」
毒されているだなんてそんなまさか。
絆されているなんてそんなまさか。
この私があの子供に。
真樹緒という子供に。
下らない。
あんな人の鎌を持ち出して部屋の障子を破る子供に毒されるなどこの明智光秀の沽券に関わります。
「…、」
それにしてもあの障子、きちんと張り直しているでしょうね。
言いつけて来ましたが何分寝起きのあれでしたので覚えている可能性は低いです。
右手を上げて返事はしていましたけれど、半分程夢の中の様でしたし。
返事だけはいいんですよあの子。
返事だけは。
「……」
ふ、
ですから私は何を。
一体何を。
絆されているなどそんなまさか。
「ふふふふふ…」
くくくくく…
ああ、可笑しくて可笑しくて腹がひっくり返りそうですよ。
余りの可笑しさに痛い位です。
鎌を揺らすと鈍色が白く光って己の顔を映している。
口元を緩ませる私の、何とも面白い顔を遠慮も無く。
まばゆさに空を見上げれば焦げてしまいそうな程日が私を照らして。
じりじり、じりじり、眩しいそれはあの子供を思い起こさせた。
ああこれは。
瞼を僅か伏せる。
長い前髪の奥、見えるのは太陽か、それとも。
―――
―――――
「真樹緒、真樹緒、」
起きなさい。
日はとうに昇っていますよ。
いつまで寝ているつもりですか。
薄暗い部屋の中、掛けてあった褥を放り出し着物を肌蹴させている小さな子供の頭を撫でた。
一度寝入ると余程の事が無い限り起き上がらない子供は真樹緒という名で。
俘虜のつもりで連れて来たというのに、その自覚を欠片も持たない理解に苦しむ子供だった。
私の名を呼び、私の背を追いかけ、私の寝床に潜り込んでくる理解に苦しむ子供だった。
毎日毎日何が楽しいのかよく笑い、よく食べ、よく眠り。
すこぶる健康に屋敷で過ごしている。
「真樹緒、」
「んうー…」
寝床に包まり目をこする真樹緒は未だ夢の中で。
うっすらとその目が開いたものの、そのような緩慢な動作では起き上る事もままならないでしょう。
呆れ、もう一度名前を呼べば包まっていた体が寝返りを打ちこちらに向いた。
「…ぬー…なに…?」
あけちのみつひでさん。
なに。
もぉ、あさ?
舌ったらずな真樹緒に顔が緩むのを、今更気にするつもりは無く。
そのまま頭を撫で「起きなさい」と告げれば頭を振ってぐずる。
全く手のかかる、とやはり顔が緩んだのは仕方の無い事だともう諦めている。
「私は今から出立します。」
「……おでかけ?」
「はい。」
どこに?
…すぐにかえってくる?
「ええ、ですから女中の言う事を聞いていい子でいるのですよ。」
でなければ土産は無いとお思いなさい。
「……」
「……」
「……」
「……まさか既に何かをやらかしたなんて事はありませんよね。」
言いましたよね。
私今から出かけるんです。
出かける前に面倒事を起こさないでいただけますか怒りますよ。
「ぬん…ちょっと、しょうじを、びりっと…きのうの、よるに…」
ほら、ひろまに立ててた。
みつひでさんの、かま。
こうさわってたら…ぬう、ぐらっと。
ほんで。
ほんで、けっこうせいだいに、…びりっとしょうじが。
「…しょうじ、びりびりって。」
「…今朝見た時は何ともありませんでしたよ。」
「じょちゅうさんが、」
じょちゅうさんが、とりあえず別のんを、って。
やぶれたやつはずしてやぁ。
ちがうしょうじをそこに立ててくれたん。
みつひでさまにはないしょであとでなおしましょうね、って。
「…ゆうてたよ。」
ぬん。
なおすから、あとで。
やから、おみやげ。
やから、もうちょっとねてていい?
「……」
うちの女中も。
何時の間にこの子供に絆されてしまったのか。
いよいよもって、これは腹を括れという事だろうか。
ため息を吐き、また目を瞑ってしまった真樹緒に褥を被せその顔を見る。
寝息がすうすうと聞こえて来た。
なんと穏やかな寝息だろう。
「……」
手を伸ばし、静かに伸ばし、真樹緒の細い首に添えた。
力を入れればすぐにでも締まりその寝息を止める事は容易いだろう。
親指に力を込め、次に人差し指、そして中指。
「あと、二本。」
けれどああ。
何という事でしょう。
初めに求めたはずの恍惚も。
背中の疼きも、小さな命をこの手で簡単に握りつぶす事が出来るという興奮も。
僅かでさえ得ることが出来ない。
そればかりか、一瞬の内に消えてしまいそうな命の小ささに手が、背が、驚く程冷える。
手を離し、真樹緒の頬を撫でた。
温かく柔らかかった。
「…真樹緒。」
「んー…ん、」
「真樹緒。」
「ぬーう、…」
「…障子はきちんと直しておくのですよ。」
「…はぁー、い…」
いってらっしゃい。
きをつけて、ね。
右手を伸ばし、伸びをするように伸ばし、真樹緒が言う。
返ってくるとは思わなかった返事は私の目を丸くさせるのに十分で。
「ふふふ…」
喉が鳴る。
可笑しくてしょうがないと喉が鳴る。
喉を鳴らしながらゆっくりと立ち上がった。
寝息は変わらず穏やかで温かい。
きっと顔はまた緩んでいるのでしょう。
もう否む気も起らない。
そうして私は、気でも違ったかのように、行って参りますと己でも背筋が寒くなるような事を小さく告げ振り返らずにその部屋を出た。
ああ、今頃あれはどうしているだろうか。
「光秀ェ。」
「…やっと、私の出番ですか。」
信長公。
焦れていましたね存じていますよ。
この光秀、いつお声がかかるかとお待ちしていました。
振り返ればいよいよ堪忍袋の緒が切れそうな主が魔王の面持ちでこちらを見ている。
今にも自ら乗り込んで行かんばかりに。
「本願寺を落として参れ。」
籠城なんぞ生ぬるい。
この織田信長の前には何人たりとも立つ事許すまじ。
余に楯突くその愚行、命を以て償うべし。
全ての者共生きて帰る事罷り成らん。
「…御意に。」
空高く、主の武器が咆哮する。
耳障りな鳥の声と共に辺りに轟音が響き渡った。
控える兵は相変わらず肩を揺らし、私はと言えばやっとまみえる事の出来る血肉に手を奮わせた。
肉を斬り裂き、血を浴びて、私は死神となる。
残虐で非道と言われる死神となる。
そうこれが本来の私。
本来の明智光秀だというのに。
「…時に光秀。」
「はい、何か。」
「先達ての戦の折、面白い物を拾い飼い慣らしておると聞いた。」
誠か。
「………」
「誠か。」
「…さて、一体何の事やら。」
伊達との戦で小さな子供を斬った事は確かです。
ですが崖の上から落ちてしまいましてね。
その後どうなった事やら。
あの高さから落ちたのでは、とても生きているとは。
「それがどうか致しましたか。」
伊達との戦での失態ならお詫び申し上げたはずですが。
機を見て再び私が出向くとのお約束も同時に。
「…ふん、」
戯言はよいわ。
興が逸れたのか、主は再び本願寺を仰ぎ見た。
こちらも気にせず大鎌を振るう。
振れば一線に風が切れた。
その風が頬を撫ぜる。
冷たい、冷たい、風だった。
--------------
はい。
完全に絆された明智の光秀さんでお送りいたしました。
それにしてもフラグってどうやって立てるんだろう本当に。
ぽぽぽんっ!と簡単に立ってくれないかな、というも思います。
次は政宗様サイドか障子直してるキネマ主か。
どちらかになりますかと。
そして今回は森生様に大きな感謝を。
本当にありがとうございましたー!
←book top
←キネマ目次
←top