真っ白な雪が目の前に迫って来た。
人を、馬を、俺を、呑み込まんとするその雪は地面を揺らし空気を揺らし視界を揺らして戦場を覆い尽くそうとしている。
聞こえるのは轟音と辺りに響く叫び声。
傍では慌てる兵士たちを先導する小十郎と、真田の首根っこを引っ張っている猿が見えた。
俺はというと存外に冷静に、振動する足元を見つめ、目の前の有様を見つめ、先程まで確認できるほど近くにいたはずの浅井長政の所在を探し、その姿が見えない事にほんの僅か同情していた。
雪崩は突然浅井長政の背後からやって来た。
それが狙いだったのか偶然だったのかは分かりはしないが、晴れやかな笑顔で手を振っている真樹緒を見る限り、あいつの企みは成功したのだろう。
「…あいつはいつから天変地異を起こせる様になったんだ…」
「政宗様!余所見をなさいますな!」
急ぎませんとこちらまで雪に呑み込まれてしまいますぞ!
「ふ、流石うちの真樹緒だぜ。」
「政宗様!!」
ご自慢は後でご存分に。
今はお急ぎください!
ああ、全く。
真樹緒、お前には本当に惚れ惚れするぜ。
喉を鳴らし小十郎が引いて来た馬に跨り雪とは平行に走りぬける。
雪崩の勢いは衰えない。
陣営は壊滅。
浅井軍はほぼ雪に呑まれ撤退の余儀は無い。
こちらの勝ち戦かと問われれば大手を振って頷けはしないのだが、戦場がこの様子では決着どころでは無い。
そして幸か不幸か負傷者が出ていないのがあいつらしい。
「くく…」
「なぁにしてんの独眼竜、笑っちゃったりして。」
思い出し笑い?
やーらしー。
「Ah?」
「佐助ぇ!離せ!これでは動けぬ!」
「ちょっ、大人しくしてくれる旦那!」
どうせこの雪の中どこに行ったらいいか分からないでしょ!
「ぐっ…!」
「何やってんだテメェら…」
器用に主の襟首を掴みながら雪の上を駆ける忍に一瞥をくれてやり、真樹緒がいる崖の上を見上げた。
雪崩を起こした当の本人は何とも得意げな顔で手を振っている。
「政宗様―」と叫んでいるのだろう、口がぱくぱくと。
この轟音で聞こえないのが酷く惜しかった。
久方ぶりに見た己の可愛いsweetはきらきらと輝いてやはりどこまでも眩しい。
どうしてここにいるんだ。
何してやがる。
危ないだろう。
言ってやりたい事は沢山あるのに、顔を見てしまえばその体を抱きしめてやりたくてしょうがない。
「梵は甘いんだから!」と奥州の母の小言が聞こえてきそうだ。
「全く政宗様は」と奥州の父からの小言も甘んじて受けてやろう。
ああ、そうだ。
その通りだ。
甘くて結構、真樹緒を甘やかすのは今もこれから先も俺の領分だ。
「小十郎、先に戻れ。」
「はっ?」
「俺は真樹緒を拾って行く。」
崖の上のcuteなpuppyが見えるだろう。
こちらに向かって力いっぱい手を振っているpuppyが。
あそこに行って真樹緒をこれでもかと抱きしめそして「馬鹿野郎」と口づけて。
「政宗様!」という声を聞くまではこの心が安らぎはしないのだ。
「あんまり真樹緒を怒らないでやってよ。」
あの子、あんたらに会いたくて伊達さん撒いてやって来たみたいだから。
そりゃぁここに来た時は俺様も驚いたけどさ。
戻ってから説教の一つでもしてやらないと気が済むどころじゃないけどさ。
猿が肩を竦めて言う。
「某からもよくよくお願い仕る。」
まこと健気な方にござる。
ここまでこられたその度量、感服いたします。
それもこれも政宗殿の事を思ってこそ。
どうか。
ただひとつ、屋敷にでも戻った折某からも真樹緒殿にお話しがあります故その旨お伝え下されば。
真田が女が見れば腰でも砕きそうな笑顔で言う。
「くく…テメェらも大概絆されたな。」
「やだ何、惚気?」
健気なあの子は自分のもんだって?
参ったねぇ。
そんな余裕ぶってると足元すくわれるよ。
「いくら政宗殿と言えども油断は禁物にござる。」
「あァ?」
「政宗様、」
それくらいに、と割って入った小十郎が眉を上げた。
俺を見て、真田達を見て、最後に真樹緒を見上げてため息を吐く。
Oh、これは言い返さない方が賢明だ。
軍は撤退したとは言っても戦の最中、冷静さを失わない右目の心の内にだって思うところはあるだろう。
真樹緒を見つけて今より一層眉間に皺を刻んだのは知っている。
いつもいつも、顔に出た試しは無いが真樹緒の事を常に深く考えている男だ。
「OKOK、小十郎。」
ここまでだ。
片手を上げて笑って見せる。
早くあそこに行ってやらなきゃなぁ。
あいつは待ちくたびれてここまで降りてきてしまうかもしれない。
あれの忍は主のためなら何でもやってしまうのだから。
さぁどうだろう。
俺のsweetはいい子で待っているだろうか。
こちらも手を振り返してやろうかと再び崖を見上げた時だった。
「おやおや、これは。」
何という有様でしょう。
相討ちなどと甘い事は考えていませんでしたがまさかこのようにしてやられるとは。
愉快、ですねぇ。
「ぬ?」
崖の上に。
そう、真樹緒がいる崖の上その真樹緒の背後に。
「あなたの仕業ですか。」
「へ…?俺?」
大鎌を持ち死神さながら。
白く長い手をゆらりとけだるそうに。
そう、あれは。
「とても楽しませて頂きました。」
有難うございます。
こんなに高揚したのは久方ぶりです。
ああ…お礼をしなければなりませんね。
「明智…光秀…」
歩んでいた足が止まる。
真田、猿、そして小十郎の足も止まる。
目は逸らす事が出来ずただ明智光秀へと一筋。
長い銀髪の死神は確かにそこに立っていた。
なぜ、なぜ。
なぜ今更。
そして、どうしてそこに。
腹の底が粟立った。
同時に背中に冷たいものが走る。
真樹緒、真樹緒、乾いた声は喉から出てこない。
目指していた敵を見つけたのに刀さえ抜けない。
足が震えた。
手も震えた。
ゆっくりと明智光秀の鎌が振り下ろされるのを、まるでslowmotionの様にただただ見つめ。
「まずい…」
まずいまずいまずい。
猿の声が聞こえたのは覚えている。
「政宗様…!」
小十郎が俺の名を呼んだのも辛うじて。
「真樹緒殿!!!」
真田が叫んだのとほぼ同時に風魔が崖から力無く落ちたのを見たのは頭が真っ白になってすぐの事で。
真樹緒が、俺の真樹緒が、無邪気にも明智光秀を振り返り。
その鎌を小さな体に受け真っ白な雪に蹲る様に崩れるのを見たのは、まるで夢か現かの狭間に足を踏み入れたような心地の内でだった。
目の前が白い。
耳鳴りと頭痛に吐き気がする。
―気をつけてね―
―はやく帰って来てね―
―無理したらあかんよ―
―たまには俺の事思い出したりしてな―
―俺も政宗様とこじゅさんの事いっつも考えてるから!―
真樹緒の声が聞こえてきた。
聞こえて来たのにここから見える真樹緒はぴくりとも動かない。
「っあ…」
喉がひゅーひゅーと変な音を出している。
切れるような痛みがしてやっと声が出た。
「…あっけないですねぇ、」
伊達の奥の手かと勘繰ってみたのですが。
私の思い違いでしょうか。
受け身も取れずただ一撃で倒れてしまうとは。
けれど。
「ふふ…独眼竜のその様な顔を拝めたのは何とも有意義な事です。」
俺を見て明智光秀が笑う。
ゆっくりと口元を上げ笑う。
見せつける様にぐったりと体の力を抜いた真樹緒が明智光秀の鎌の切っ先で持ちあげられて。
「…明智、光秀ぇぇぇぇ!!!」
「お待ち下さい政宗様!!!」
そう言えば小十郎に腕を掴まれた。
「真樹緒殿!!!」
そう言えば真田が同じように槍を振りかぶり。
「旦那!駄目だまだ雪が!!」
そう言えば猿がそんな事を言って真田を止めていた。
もう何も思い出せはしない。
真っ白だった視界が真っ暗だ。
目を閉じた訳でも無いのに。
その後の事は覚えていない。
気がつけば虎のおっさんの屋敷で、戦場の近くに張っていた陣営が明智光秀に襲撃された事を知り、風魔が瀕死の状態で運ばれた事を知り、真樹緒が明智光秀に連れ去られた事を知った。
鎌を受けた真樹緒の容体は分からない。
真樹緒がどこにいるのかも、生きているのかも、何も、何も、分かっていない。
周りはざわざわとやけに煩い。
真田が叫ぶ。
猿も叫ぶ。
小十郎が俺を呼ぶ。
けれど俺は。
未だ真っ暗な闇の中、真っ白の中で聞いた真樹緒の声が耳から離れずにただ呆然と立ち尽くしている。
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