ある国の、ある森の奥に小さなお社がある。 ゆうるりと伸びる石段を上がると赤い鳥居が木々の間から見え、その先のひらけたところが神殿である。
周りは背の高い木々に囲まれて、それでも暗く鬱蒼と澱んでいないのはここを守る稲荷神のおかげだろうか。
見た目の年のころは五歳と少し。 先の稲荷からこの社を引き継いでひととせ。 小さなきつねの子は毎日お勤めを欠かしたことは無い。 朝早くに境内を清掃し、榊と塩、お神酒と米と水を祭り。 神様に今日の護国と安寧、今年の豊作をお祈りして夕方には石段に並ぶ行燈に明かりを。
たまに下の村の子供が遊びにくるのを、少しどきどきしながら見守って。 一日が終わる前に行燈を消し、神殿で二つの尻尾とふさふさの耳を守りながら丸くなり眠る。 それがここの稲荷神、花の仕事だ。
「ふ、ぁ…」
夏の早朝。 未だ朝露が残る爽やかな今日。 神殿に差し込む細い光で花が目を覚ました。
ぴくぴくと白い耳を揺らし、伸びをする仕草はまだ眠気が完全に覚めていないのかどこか覚束無い。 少し気を抜けば再び衣の上に転がってしまいそうだ。 目をぎゅっと瞑って花はもう一度「あふ」と欠伸を。 ゆらりと動くふっさり伸びた二本の尾は今日もすこぶる毛並みがよい。
「…雨…やんだのか…」
神殿の扉を開くとぽたり、とそれに応えるように屋根から雨水が垂れた。 ここ最近大雨が続いていたが今日はやっとの晴れ。
雲の間には気持ちの良い青空。 昼には暑くなるんだろうなぁと花は口元を緩める。
「よし。」
そうとなれば早く朝のお勤めを済ましてしまおう。 それから森の周りの様子を見てこなければ。 連日の雨でどこか崩れたところは無いか。 近くの村々は大丈夫なのか。
今年の田畑は。 森の動物達は。 沢山沢山心配な事はある。
つい三日前まで戦をしていたあの荒野はどうなったのか。
「……、」
すう、と息を吸い込んで花は神殿から飛び出した。
境内の掃除も済んで。 神棚に塩と水、米にお神酒をお供えして。 朝のお勤めは終わり。 むしを垂らした市女笠を頭に乗せれば、まだまだ小さい花の体はすっぽりと薄いむしに隠れてしまう。 ゆらりとそれを揺らして花は空を翔けた。
「まずはむらだな…」
とん、と背の高い木に一歩。 ふわりと空を舞う体を尻尾で釣り合いを取る。 そうして次はもっと遠くの少し低い木に一歩。
衣を靡かせてとん、とん、とん。
見下ろす森に変化は無い。 耳を澄ませば動物達の声もちゃんと聞こえてくる。
大丈夫。 皆無事だ。 ほっと胸を撫で下ろした。
「よし…」
後でちゃんと様子を見に行くからなと、尻尾を揺らす。 そうして一層高く長く跳んだ先。 開けた人里には大雨の後の後片付けをする村人の姿が。
「よかった…」
ここも大丈夫。 皆元気に働いている。 動けない人は見られない。 土砂や洪水に襲われた様子も無い。 子供達だって無事だ。 暫く村の周りを飛んで。 ほ、と胸を撫で下ろした時。
かすかに。
「……あ…」
かすかに漂った血の臭い。
耳がぴんと立った。 尻尾が二本ともぶわりとあわだった。 胸のあたりがどきどきとして。
「…っは…」
苦しい。
けれど血の臭いがするのは自分の守るお社の方だ。 何かあったんだろうか。 出てくる時には何も変わりは無かったのに。 心臓が落ち着かない。
「もどろう…」
震える手を握り締めながら花は市女笠を深く被った。
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