「なぁなぁ、こじゅさん。」 「どうした。」 「背中、大事にせんとあかんよ。」
小さな体を湯船に下ろし、ようやく一息ついたところで真樹緒がおよそ似合いもしないため息交じりで呟いた。 思わず言葉を無くし、子鴨の元へぱしゃしゃと水飛沫をあげながら進んでゆく真樹緒をじっと見る。
「こじゅさん?」 「いや…」
その言葉に何も含んだ意味は無いのだろう。 恐らく背中にある古傷を見てふと漏らしたに過ぎない。
だがどうしてだか。 その背中にもう傷はつけるなと、主を守るのでは無いのかと戒められているようだった。
それも咎めるでなく、どこか甘やかに。 まさか、そんなはずはないのに。 ゆるゆると撫でられた傷が少し疼いた。
そして同時に口元が緩む。
「大事にか。」 「そうそう。」
ほら、こじゅさんは武人?やから当たり前とか思ってるかもしれへんけどやー。 やっぱり気ぃつけて欲しいんよー。 周りの皆から言われやん? 怪我とか。 気ぃつけやーって。
さぶん、と子鴨を頭に乗せてこちらにやってくる小さい子はふわふわ笑いながら俺の膝に乗り上げる。 少し火照った頬に、あまり暴れてのぼせるなよと呟けば「大丈夫やもん」と顔が膨らんだ。
「…ねぇなぁ…」 「えー。」
負った傷を案ずられる事ほど不面目な事は無い。 己の朋輩、ましてや仕える主になど。 小さく笑って見せれば真樹緒はふぅんと思案顔で。 物言いたそうなその頬を撫でて、湯に戻ろうとしている子鴨を手に乗せた。
そうら行けと湯に下ろしてやると「ブモッ」と礼のつもりなのか一つ鳴いて優雅に泳いで行く。 温泉が気に入ったのか。 変わった鴨だ。 喉を鳴らせば「こじゅさん」と。
「どうした。」 「あんな、」
俺考えたんやけど! 膝に乗った真樹緒が手を硬く握って俺を見上げた。 むん、とどこか力が篭ったような顔に今度は何を思いついたのだろうと額に張り付いた真樹緒の髪を撫で付ける。
「こじゅさんの背中は俺がチェックする事にする!」
「…ちぇっく…?」
「そうチェック。」
どういう意味だと首を傾げれば楽しそうな顔で。
「あんな、もしこじゅさんが戦ったりしやなあかん時とかがあったらな。」
戻ってきたらこじゅさんの背中、怪我してへんか調べるん。 やぁ、背中だけやないで。 お腹とかも見るけど。 やって心配やん。 俺こじゅさん怪我するん嫌やもん。 もうな、あんな苦しそうなこじゅさんの顔は見たないん。
思わず、息が止まった。
「真樹緒」と出ない声で言えば花でも咲きそうな程の笑顔が俺を見上げていた。 あんな、とはきっと真樹緒と出合った時の事を言っているのだろう。 腹を裂かれ、血をこれでもかと流してまさに息が尽きようとしていた。
「…真樹緒。」
「ほら、こじゅさんらは怪我あんまり気にしなさすぎやから。」
俺がチェックなん。 分かった? ほんでな、怪我してたらお仕置きやねん。
「…お仕置きか。」 「そお。」
お仕置き。
笑う真樹緒に肩を竦めると「俺は本気やで!」と窘められてしまった。 それではどんな仕置きが待っているのか。 きっと真樹緒の考える事だ。 それはそれは恐ろしく、そして可愛いものだろう。
「んーと…三日ぐらい俺の言うこときかなあかんとか。」
ほら。 俺のお願いを絶対に聞いてくれやなあかんの。 嫌って言えやんねんで。 どんな無理なお願いも断れやんねんで。
人差し指を立てて言われたが、それではいつもと何も変わりはしない。
「くく…」 「ぬ?」 「いや、」
お前のお願いを断れやしないのはいつもの事じゃねぇか。 俺や、成実、風魔、果ては主まで。
いつだってお前に甘えられるのを待っている。 可愛らしい声で、名を呼ばれるのを待っている。 お願いだとねだる様な、伺うような大きな目に己が映るのを待っている。
それが仕置きだというのなら何と甘美な。
「もう!こじゅさん俺本気やで!」
笑ってたら知らんのやから! 尚も食い下がる真樹緒を宥める様に、その肩に温かい湯をかけた。
分かっている。 お前が俺たちを大事に思っている事は痛いほど。 そう、面映いまでにその思いは些細な言動、仕草から伝わってくる。 そしてお前が思いもよらぬ程自分達は真綿のように柔らかく、羊水のように温かいもので満たされているのだ。
全く。 本当にお前は。
「…こじゅさん?」 「…肝に銘じる。」
ああ、この名に誓って。
小さな体を抱きしめた。 汗ばんだ体が己の体と馴染んで温かい。 自分の背中とは比べ物にならない程白く傷一つ無い肌をとんとんと撫でた。
「こじゅさ…」
「無理難題を焚きつけられちゃぁ適わねぇからなぁ。」
背中に傷はつけねぇよ。 安心しろ。 約束だ、と見下ろした真樹緒は目をぱちぱちと瞬いた後笑いながら。
「やくそく?」 「ああ。」 「破ったらお仕置き?」 「ああ、」
甘んじて。
俺の返事に満足したのか、膝に乗っていた真樹緒がまた水飛沫を立てて子鴨の元へ歩いて行った。 鴨田さん遊ぼうと楽しそうに。
腹の底をくすぐるはにかんだ思いは心地良い。 はしゃいでいる真樹緒を見ながら、そう言えばこの後は枝豆を食うんだったかと。 すでに傷みの無い背中の傷を僅か眺め思わず口元を緩めた。
「真樹緒。」 「ぬー?」 「そろそろ上がるぞ。」 「えー、もうちょっと遊びたいんー。」 「ぶもー。」 「枝豆を食うんじゃなかったのか。」 「おまめ!!」 「ブモッ!」
終!
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