月の裏側を歩いてご覧

 あ。

 さいわい。

 風を切る音。じりじり肌を燃やす輻射熱。太陽。白と水色の天頂。さいわいにも。さいわいにも、蟹は世界を失わずにすんだ。世界を失わずにすんだので、蟹はまだ空を見上げていられる。熱を全身で感じていられる。地球の重力に身を任せていられる。空気を美味しいと思う。水をうつくしいと思う。星を手に入れたいと思う。月に願いをかける。同時に、蟹はかなしく思いもした。まだこんなくだらない余生をどうにかしないといけないのかと、自分の擦り切れた靴で歩いていけるわけがないと、せっかくたすかったいのちをまた放り投げたくて放り投げたくて堪らなくなり、縁まで歩いて降りようとしたところを、ぶざまに殴られ止められた。

 まずはどうして、此奴が世界を失いそうになったのかを語ることにするけれど、実を申せば語り伝えるほどのものでもない。蟹というやつはいわゆる会社員という仕事をしている。白いシャツとベージュのパンツ、白いスニーカーで、毎日ギターを売る店に出勤してギターを売っていた。とある日、ものすごく仕事がいやになった。暇すぎたのである。平々凡々な日々だった。職場環境も悪くなかった。寧ろ、蟹が悪くしていた。蟹は気づかぬうちに仕事に嫌気がさしていらいらしていたらしい。上司は蟹に注意した。あなた、顔がこわいよ。こわがられているよ。溝ができてるよ。もう二年も働いているのだから。先輩なのだから。周りに良い影響を与える人になりなさい。とはいえ、笑顔でいればいいってものじゃない。周りへのホスピタリティ、慈愛、思いやりってものをだね……。くどくど。くどくど。くどくど、くど。
 蟹にはそれが退屈でたまらなかった。
みんなが仲良しの世界など気持ちわるい。まして自分の犠牲の上に成り立った平和な社会なんて。と思って、とうとう蟹は会社員をやめた。
 それから蟹は、生きることさえ億劫になって、高いところから落ちてみることにした。砂漠のように乾燥しきった夏、July43、カレンダーさえまともに機能しないサボテン街で、蟹はひとつのビルを見つけた。ル・サン、698-35。ビルの名前だ。そのビルは真っ白で、ぐねぐねと曲りくねりながら立っている。一階はシーサイド・カフェをモチーフにしたような喫茶があり、その上からは何かしらのテナントが入っているらしかった。しかしそんなことはどうでもよく、蟹はそのビルの屋上から飛び降りようと決めた。それだけのことだった。

 そして、失敗をした。蟹が落ちるのを、そのビルの管理人が止めたからだ。

 管理人は、内階段のところのくぼみに机を置いて、一応ビルを管理していた。彼も彼で働くことにはうんざりしており、ビルに入ってくる奴はほとんど無視していた。どうせそれぞれの階の入り口で虹彩セキュリティが導入されているので、ビル管理人が居ても居なくても同じことだった。しかし彼は働くふりをしていないと別のことをやらされるので、仕方なくそうしているだけだった。
 ビルは、目の前を通り過ぎゆく蟹をなんとはなしに見つめた。蟹は、うつろな眼をしていた。なにかを殺す勢いの眼だった。そしてその眼は誰のことも映していなかった。その蟹の姿をみて、ビルは不審に思って、こっそり後をつけて階段をのぼった。鉄の扉をあけ燃えるように暑い屋上へ出ると、さあ、落ちるぞ、という様子の蟹が見えて、ビルは思わず走り出し、ソールは摩擦で焦げ靴紐はほどけたが、なんとか追いついて、蟹の腕を引っ張りあげた。蟹は宙にすくいあげられ、高く、高く、くうをぐるり待ったのちに、鉄板のような屋上へ落ちてきた。びたーん、と水を求めて魚が跳ねるときみたいな格好わるい音がした。じゅっと、肌が焼けた。それから、前述したように、蟹は悪あがきをしたので殴られた。今回の件で、蟹の骨は七本折れた。

「ばかなんじゃないの」
 ベッドサイドで桃の薄皮を、厚い皮として処理するザサがいう。「生まれてから死ぬまで、ばか」
 蟹は気づいたら病院のベッドで倒れていた、というのは語弊で、彼女はしかるべき優しさと慈愛をもって、横たわらせられていたのである。
「桃はきらいだ」蟹は言った。
「うるさい、うるさいよ、あんたの好みなんて聞かないよ」
「なるべくすべての実を皮として処理してよ」
「ふむ。それはもうやってるわ」
 ザサは白い皿の上に、不器用の象徴、塊、権化とも言える桃の屑切れを乗せて、小さなフォークを刺した。実が小さすぎるためフォークの重さを支えきれず、かちゃん、と倒れてしまう。ザサも蟹も、それを気にしないで食べた。桃の屑はすぐに消滅した。
 蟹は嚥下して、しばらく窓の外を見て考え事に耽った。室内には不安を煽るような安心を誘うようなぎりぎりのラインのギター・アンサンブルがかかっている。ザサの趣味。きみが悪い。
「わたし、一回死んだ?」蟹は、靴下を編み始めたザサに訊いた。
「そんなわけないでしょ」
「自分で歩いてここまで来た?」
「ビルっていう人が、通報したって訊いたけど」
「通報」
「不法侵入だって」
 ザサは手元を見つめ、ふきげんそうにする。
「警察もさ、さすがに骨が折れて痣だらけのやつを連れて行けないみたいね」
「じゃあわたし退院したら逮捕されるんだ」
「初犯だからなんとかなる」
 窓と反対の位置にある白いドアがあいて、はあいスノウ・クラブさんお熱測りますね水差し替えますね傷の具合どうですか痛みますかそうですか、ナースは赤いルージュをにっこり歪ませホスピタリティ溢れる対応をして去っていった。病室にはまたザサと蟹だけが残される。どうしてナースとかドクターって患者のことフルネームで呼ぶんだろうね、蟹はザサに訊くが、ザサは誇らしげに笑ってしまうだけだった。彼女は、ザサ・ジェラルドというファミリー・ネームが気に入っているから、蟹だとか揶揄されるスノウの気持ちがわからないらしかった。
 スノウは両手をかいま見た。砂が零れ落ちるような錯覚を得て、結局それはきちんと見てみれば幻想にすぎないことを思い知る。星の欠片だったら、よかったのに。彼女はまた、うつくしくもない涙を落とす。

 見舞客はスノウ母、スノウ弟、恋人、そしてザサが主たるものだった。ドクターとナースはよく出入りして経過をみた。何回も名前をフルネームで呼ぶので、いい加減スノウかクラブのどちらかを削ったらどうかと思った。恋人は仕事がいそがしくあまり来られなかった。ザサは無職なので毎日やってきた。ザサのいる病室は、一人でいるのと同じくらい退屈で、唯一いいことを挙げるとすれば、スノウの放った言葉にドライな言葉を返してくれるのが有難かった。

 スノウのやれることといえば、よく食べよく寝て、さっさと退院することだった。だからスノウはだるいながらも出された食事はぜんぶ食べた。味を感じないのはもとよりで、それでも灰よりましだと思えるからなんとか腹に収めることができた。この世で餓死をすることはない。灰さえ食べれば生きていける。灰は、すごく不味い。

 スノウは弟に頼んで部屋から数枚レコードを持ってきてもらい、それを折れていないほうの腕で器用にかけてしまう。あの世界的に有名じゃないポートレイト・マシンのアルバムに、サボテン街界隈でまれに名を聞くサワークリームのメキシコ・タウン。なにをどう聴いても、スノウの心を癒す素晴らしいものばかりだった。
 心地よいギターの音色の中で、スノウはほとんど夢かうつつか判断できないものをみた。窓からそそぐ太陽の輻射熱が熱い。彼女の夢にはたいていルサンチマンが出てくる。ルサンチマンは何かしら怒るか泣くかしていた。見目可愛らしい、小さな男の子だった。にこにこ笑っていればいいものの、それができないらしかった。蟹は鏡を見せられているような気持ちにもなる。ルサンチマン、笑いなよ。きみは軽々しく思い、言う。しかしそれは、かつてきみを死に追いやった、呪いの一言ではないのか?
 なにも、ニーチェはスノウにそんなことを言いたかったわけでもあるまい。ルサンチマンという言葉はスノウの心の中で意味もわからず残っていた言葉にすぎないのだから。ルサンチ・マンとかいう男性を示すものだと思っていたくらいだ。本当のところ鬱詰した弱者の心を指す。

 またある日は海の中にいた。水母の回游、水母の回游、ゆらめく昆布。スノウは口の中がきゅっとなった。酢昆布を思い出したからである。

 別の日には、ドアをどんどん叩かれる夢を見た。おそろしく暗い夜のことで、心臓がちぢんでしまうかと思った。おどろいたのは、スノウの心臓がまだ動いていることだった。

 思えば、ル・サンというビルを最期に選んだのは、自分の中にいたルサンチマンへの気持ちのあらわれかもしれなかった。番地のことは忘れてしまった。数字の羅列など、覚えてしまう必要性がない。そこまでいけば人間はいよいよ機械となる。しかし、数字がわからなければ、手紙は出せない。数字をあてがわなければ、行政は民の管理ができない。484306-5。ザサの電話番号である。スノウの覚えている数字はこれと、自分の誕生日のApril53くらいである。

 管理という事柄こそ傲慢で人間社会たらしめるものはない。自然界に管理という概念はない。

 とある日ビルが蟹の病室へやってきた。ビルは輝くような金髪の青年で、怠惰にかまけているわりにはきれいな目をしていた。もっとも、蟹をぶん殴ったあの日は、もう少し慈悲のない目をしていたし、つなぎのような服を着ていた気もする。彼はシャツにチノパンと、一般的なカジュアルを踏襲しつくしてやって来た。蟹も蟹で、患者を踏襲しつくした入院着の着こなしを惜しみなく発揮した。
「ビルさん。すみません、はじめまして」
「本当だよ、はじめまして」
 出会ってから数週間、ふたりはようやくまともな言葉を交わした。ふわふわと昼間の熱気が通り過ぎる。ビルはいつもはザサが雑に腰掛けている簡易的な椅子を引き寄せ座った。ビルの様子は怒っている風でもなく、かといって落ち着いてすらもいなかった。怠惰をやりきったような、先を見ているくせに、目の前が見えていないみたいな感じだった。蟹も遠い目をした。蟹には、目の前どころか先すら見えなかったけれど。
「文句とか言いに来たんじゃないんだよ」ビルが言う。
「あの日おまえさんが落ちると思って、落ちたら事故物件とかいってビルの評判が下がるからクソっと思って止めた、それだけのことなんだ。だからおまえさんが落ちるのをやめてくれて助かったよ」
 自発的にやめたという記憶のない蟹は、シーツの下で気まずく両手を握った。なんだ、怒りにきたんじゃないのか。
「おれも、あんなにむきになって何かを必死に止めたのははじめてだぜ。おまえさんも、あんなに必死に止められたのははじめてだろ? あれは、おまえさんのためじゃなかったから、できたね。もちろん、おまえさんの恋人だったら、おまえさんのために止めただろうよ。でもおれは他人、いいとこ友人止まり、そういうやつを必死にさせるっていうのは、よく考えたらすごいことだよなあ」
「はあ」
「おまえさんさ、なんでそんなに死にたがってたんだ? 見たとこ三白眼の美人さんじゃないか。不自由のなさそうな人生に見えるけどね、ま、あくまでおれからしたらだけどね。冥土の土産にきかせてくれよ。言葉遣いが悪いのをゆるしてくれ」
 蟹はシーツの下で指をゆっくり折り曲げながら祈った。はやく男の帰るように祈った。だが、訊いてくれんなら、と少しだけなら口を割る気にもなった。水差しからコップに水を注ぐと、それを細い指で支えながらスノウは水を飲みくだす。薬と、少しの塩の匂い。

「おもちゃ箱がある。ドアが半開きになった子供部屋に、廊下の黄色い光が差し込んでくる。エジソン・バルブとかいうお洒落な電球。わたしはそれを暗い部屋の中から眺めながら眠るのが好きだった。光が差すと、子供部屋の色がうすくわかるようになる。緑、ピンク、黄色、紫、青、ポップで明るい色使い。だれもわたしのじゃまをしない、傷つけない、そういう場所だった。それが、ついこのあいだ土で埋められてしまった。
 わたしは行き場をなくして、真っ暗な空を見た。星がある。4779064589個みえる。しかしそんな数を覚えることに意味はない。わたしは星を見るのをやめた。そうすると、月しか見えなくなった。月は一個しかない。数字で管理されることもない。どれだけ輝いても、まわりはそれを良いように解釈してそっとしておく。月のうつくしさは事実じゃなくて解釈である。わたしは手を伸ばした。届かなかった。きっとここにいたら一生触れないんだ、そう思った。だからできることをしてみようと思った。それだけです」

 スノウが語り終わるまえに、ビルは部屋から出て行った。

 スノウはザサに電話した。彼女は2コール以内に出た。
「退院するの、ドライブしない?」スノウは言った。退院は、スノウが決めたことである。
「いいけど、海岸しか運転しないからね」
「月面は?」
「ばか」
 ぶっきらぼうに切られる。

初出 20160806
重複掲載あり
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