この国においてバレンタインとは、女が好意を抱いている男にチョコレートを送るという、女のわたしとしては逆になってくれないかと願っているイベントである。よく考えてほしい。とりあえず好意を抱いている相手を想像する。そこまではいい。ヤツは料理が好きで、そしてかなり美味しいものをつくるのである。ここから導き出される結論。
「…バレンタインなんてなかった」
これだ。もうこれしかない。わたしはチョコレート会社の陰謀にはのらない。そもそもただの片思いだし、ぜんぜん、それで問題はないのだ。
これでもわたしはお菓子作りが得意なほうなのだが、ヨウスケにはかなわないという自覚はある。自分より料理がうまいひとに誰が手作りをあげたいと思うか。かと言って市販のものを買う気にもなれないまま、ずるずると当日を迎えてしまったのだが。
「今日はサブスタンスのみんなと遊ぼう…」
「…どこに行くつもりだ」
「ぎゃあ!?」
「…チッ、驚きすぎだ」
噂をすればなんとやら。心のなかで考えていてもこうなるとは、なかなかにおそろしい。ヨウスケのことを考えているときに、その本人が現れたら驚くにきまっている。驚きすぎでは、決してない。
まだバクバクと激しく音をたてている心臓を抑えつつ、「なにか用?」とくちにだす。思ったよりも緊張した声色で、我ながら驚いてしまった。もちろんその異変を気づかないような相手ではない。でも知らぬふりをしてほしい。だって、尋ねられても答えられないから。
「…こい」
「へ!?え、ちょっと!」
ずるずると手を引っ張られ、たどり着いた先は調理室。ちなみに、ここに連行される理由はわたしには存在しない。わたしが連行するのならともかく、だ。しかしバレンタインの存在を消し去った今のわたしにとっては連行する理由などなく、つまり、調理室に行く理由がないし、連れて行かれる覚えもないということである。我ながらまわりくどい言い方である。
「座れ」
「…は、はい」
さっきから心臓の音がやまない。相変わらずぎゅっと心臓を抑えながら、ヨウスケをみつめる。ちいさく舌打ちが聞こえたが、わたしの態度が気に触ったのだろうか。そう思って顔色を伺ってみるが、苛立った様子はみられない。ふ、と息を吐く。すこし心臓の音が止んだ。
「食え」
「…っ、!?」
目の前にだされた数々のチョコレート菓子。チョコレートの甘いかおりが漂っている。わたしをみてヨウスケがふとわらった。たぶん今のわたしは、誰が見てもわかる程度には目を輝かせているに違いない。これでもヨウスケと同い年だというのに、精神年齢に差がありすぎて参ってしまう。いただきます、と手を合わせて、チョコレートケーキをひとくち。
「、すごい美味しい…!!」
「…そうか。よかった」
ぱくぱくと口の中をチョコレートケーキで満たしたところで、ふと気づく。チョコレートケーキ以外にもお菓子はたくさんあり、どう考えても一人分ではない。というか、わたしはこれを一人で食べるほどの胃袋を持ちあわせてはいない。
「ヨウスケは、食べないの?」
「これは名前のために作ったものだから」
「…でもこれ、一人分じゃないと思うんだけど」
「…チッ、お前なら食える」
「いやあの」
やばい。一人で食べれないと自覚したとたんに満腹感がやってきた。わたしの胃袋、限界はやすぎる。もっと頑張ってください。甘いモノは別腹と思っていた時期がわたしにもありました、なんてのんきに考えていられる状況ではない。
「…どうした」
「胃袋の限界を感じていたところでして…」
「チッ、口をあけろ」
は、と顔をあげたところで口のなかに突っ込まれたチョコレート味。今の状況がまったく把握できない。一気に顔が熱を帯びてきたのを感じる。おかしい、今は二月だというのに、なんだか暑い。とても暑い。リュウキュウ補正を除いても、だ。
「ぎゃ、逆チョコとかぜったいもう、いい…」
「何かいったか?」
「いいえなにも!」
ホワイトデーには絶対に、もう、三倍返しですまさないぐらいの量を用意してやると心のなかで誓った。このさい上手い下手は関係ない。仕返しをすることに意味がある。我ながら子どもっぽいなと苦笑いしつつ、差し出されたお菓子を口のなかにいれた。
チョコレートの海に溺れる / 130214